キリスト集会のご案内
TOP日曜礼拝家庭集会よろこびの集い出版物  


メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


ワシントン・喜びの集い
   
2003.3.23(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
 ペテロ第一の手紙 4章7節から11節
   万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
  何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶ
  やかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのです
  から、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合い
  なさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が
  豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべて
  のことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配
  が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。


 今、読んでくださった箇所は、3回も「イエス様を知らない」と言ったペテロの、励ま
しの言葉です。7節、「万物の終わりが近づきました」。このように、ペテロは、初代教会
の信者たちに書き送ったのです。彼がこれを書いた目的とは、いったい何だったのでしょ
うか。一つの教えを宣べ伝えるというよりも、彼らを励ますために書いたに違いありません。私たちも、一つの教えを知るよりも、励まされる必要があるのではないでしょうか。

 「万物の終わり」という表現があります。ペテロは、何を考えていたのでしょうか。疑
いもなく、「当時のユダヤ教は、終わりに近づいた」と言えるでしょう。けれども、それだ
けではありません。「多くの人々の、『自分のいのちの終わり』も近づいた」と言えるので
はないでしょうか。当時、数えられないほどの多くの人々は、自分の信仰のゆえに、殉教
の死を遂げるようになったのです。12・13節から見ても分かります。
   愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、
  何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリスト
  の苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現わ
  れるときにも、喜びおどる者となるためです。

けれども、それだけではなく、疑いもなくペテロが「万物の終わり」という表現を使った、
もう一つの理由は、「『今の時代』、いわゆる『恵みの時代』は終わり、イエス様の再臨は近い」と言いたかったに違いありません。
 初代教会の特徴とは、イエス様の再臨に対する待ち望みでした。ですから、彼らは、生
き生きとした証し人だったのです。求める者は、次々とみもとに導かれました。『使徒の働
き』を見ると、毎日のように、多くの人々が信じる者の群れに加えられるようになったの
です。「万物の終わりが近づきました」。
こんにち、一番大切なのは、初代教会のように「主を待ち望む生活をすること」なので
はないでしょうか。ヤコブは、ちょっと違う言葉で、同じことを言ったのです。5章8節。
   あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

その「とき」は、間近いのです。私たちはもはや多くの時間を持っていません。私たちがこの事実を待ち望みつつ生活するならば、私たちの日常生活は違ったものとなり、私たちの祈りの生活は、大きく影響を受け、私たちの奉仕も、違うものとなるに違いありません。
 聖書の中で「イエス様の再臨」が、言及されるとき、それは「私たちの実践生活」とい
つも密接な関係を持っています。というのは、ここでは何らかの「教え」ではなくて、ま
た、「頭の知識としてのいろいろな問題」となっているのではないからです。

 一つの問いについてだけ、ちょっと考えたいと思います。すなわち、「主イエス様の再臨を待ち望む生活」とは、いったいどのようなものなのでしょうか。この問いに対して、ペテロはこの7節から11節の中で、7種類に分けて答えています。

イエス様の再臨を待ち望む生活とは
1. 心を整えた生活です。「心を整え、理性的でありなさい」と命令されています。
2. 祈りの生活です。「祈りのために身を慎みなさい」と命令されています。
3. 互いに愛し合う生活です。「互いに熱心に愛し合いなさい」と命令されています。
4. 真の友情の生活であります。「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」と命令されています。
5. 奉仕の生活です。「互いに仕え合いなさい」とあります。
6. 大胆な証しの生活です。「語る人があれば、神のことばにふさわしく語りなさい」と命令されています。
7. 神の栄光を現わす生活です。「すべてのことにおいて、神があがめられますように」と命令されています。

これら全部が、命令です。提案ではありません。

 まず、一番目から見てみましょう。主の再臨を待ち望む生活とは、「心を整えた生活」であります。
 「万物の終わりが近づきました。ですから、心を整えなさい」とあります。まもなく、
イエス様が再臨なさる、その「とき」が間近いのですから、心を整えなさいと、ここで書き記されています。間近い主の再臨を意識して生活する者は、理性的となります。すなわち、分別に富む、賢明な者になります。その人は、過ぎ行かない価値のために、全力を尽くすでしょう。その人は永遠のために働くようになるに違いない。無分別に生きるということは、ただ現在のことだけしか考えないことであり、自分自身のことだけしか考えないことであり、悪魔に余地を与えてしまうことを意味しているのです。
 初代教会の信者たちは、悪魔の絶えざる攻撃にさらされていました。彼らの周囲には、
現在のことだけを考え、イエス様と何の関わりも持ちたくないと願う霊がいました。それ
ですから、初代教会の信者たちは、「励まし」を必要としたのです。励まされるために、彼
らは、「間近いイエス様の再臨」を指摘されたのです。それは、彼らにとって、驚くべき力
の源泉でした。私たちもまた、この「励まし」を必要としているのではないでしょうか。
 「主のために使う時間など、全然ない」というのが、今の時代の特徴なのではないでしょうか。私たちが、この霊によって感染させられることは、非常に危険です。
マタイの福音書24章6節では、私たちが戦争のことや、戦争のうわさを聞くとしても、イエス様は、私たちが平安に保たれることを望んでおられます。
 2600年前に、イザヤは次のように書いたのです。イザヤ書 26章3・4節です。
   志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼し
  ているからです。いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。

それから、箴言 1章33節に、
  「しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安
  らかである。」

とあります。再臨を待ち望みつつ生活する者は、何ものをも恐れません。その人は、何も
のにも心を騒がせず、分別に富む賢明な生活をします。すなわち本当の意味で、賢い生活
をする者です。

 第二番目。再臨を待ち望む生活とは、「祈りの生活」です。
 「祈りのために身を慎みなさい」と、ペテロは書いたのです。「分別があること」と「冷
静であること」とは、一つに結びついています。もはや、冷静でない者は、無分別となり
ます。「あなたが祈りのない状態に陥らないように、警戒しなさい。用心していなさい」と。
「あなたが、主により頼まないようになったり、『主』なしに、物事を手におさめたりする
ことのないように、注意しなさい」と。
 「祈り」は、常に、二重の作用を持っています。私たちの祈る人たちが祝福され、私た
ち自身も豊かにされます。そのことについての実例を、私たちは『ヨブ記』、42章10節に見出すことができます。旧約聖書の830ページになります。
   ヨブがその友人たちのために祈ったとき、

その「とき」に初めて、
   主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。

とあります。結局ヨブは、主の目から見ると、とんでもない罪を犯してしまったのです。
どういう罪かと言いますと、あの変な友だちのために、祈ることをやめたことです。もう
イヤになったのです。彼らはヨブのことを同情しないで、攻撃しただけなのです。「あなたの状態は、あなたが最もひどい罪を犯さなければ、考えられない。天罰だよ。天罰だよ」と。そして、ヨブは「もう、イヤです」と、祈ることをやめたのです。だから、主は働く
ことができなくなってしまわれたのです。けれども、彼が「友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された」とあります。
 主が私たちを祝福なさりたいのなら、どうして私たちは祈らなければならないのでしょ
うか。変な質問かもしれませんけれども、答えは、主がそう決められたからです。主は、いつも、私たちの祈りの答えとして祝福したいと望んでおられます。祝福されなければ、主のせいではなくて、自分のせいです。「祝福されずに出て行く者は、自分のせいである」と、聖書は、はっきり言っているのです。従って、「祈りの人々」が求められています。というのは、主は、その人たちを通して祝福したい、と望んでおられるのであり、ご自身を啓示なさりたいのです。
 エゼキエル書 36章37節に、次のように書かれています。
   神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次の
  ことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。

私たちが、主に願い求めるとき、主が私たちのためになさってくださることがあります。
けれど、私たちが主に願い求めないならば、主がなさらないこともあります。それですか
ら、私たちは「祈るために、身を慎みなさい」と要請されるのです。
 何ものによっても、祈りを妨げられないようにしましょう。主の前に立ち続け、主から
大いなるものを期待しましょう。
 エペソ人への手紙 6章18節を見ると、パウロは当時の信じる者に大切なことを書い
たのです。
   すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのため
  には絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈
  りなさい。

祈りによって何が成就されるかという事実を考えるならば、私たちが少ない祈りをすることや、主に期待することが、あまりにも少ないということは、おかしいことではないでしょうか。数え切れないほどの約束は、祈る人たちに与えられています。そして、数えられないほどの人たちは、約束の成就を経験しました。どうしてでしょう。なぜなら、彼らは信じて祈ったからです。
 なぜ私たちは、もっと祈らないのでしょうか。主でさえも、そのことを不思議に思われ
ています。イザヤ書59章16節を見ると、次のように書き記されています。
   主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕
  で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。

とあります。一人の祈り人の祈りを通して、非常に多くのことが成就されます。ヤコブは
次のように書いたのです。5章16節。
   義人の祈りは働くと、大きな力があります。

私たちは一つのこと、すなわち、あまり祈らなかったことを、召されてから後悔するので
はないでしょうか。間近い主イエス様の再臨を待ち望みつつ生活する者は、意識的に新た
に祈りに没頭します。

 第三番目。イエス様の再臨を待ち望む生活とは、「互いに愛し合う生活」です。
 ですからペテロは、「互いに熱心に愛し合いなさい」と書き記したのであります。イエス
様は、すぐに来られます。その「とき」は、間近いのです。お互いに愛し合いましょう。ペテロは8節に、「何よりもまず」という表現を使っています。
   何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

私たちは、お互いに愛し合うべきです。しかもこのことは、他のすべてにまさって、大切
なのです。ですからここで、「何よりもまず」という表現が使われています。そして、この
「愛」は、持続的で熱心であるべきです。私たちは、したいと思うことをすることができるでしょうけれど、「愛」がなければ、お互いに近づき合うことができません。
 初代教会について、次のように言われています。「見よ。彼らはなんと愛し合っているこ
とでしょう」と。これは、革命的な作用をもたらしました。誰でもが自分のことだけしか考えない現代において、「愛」は、かたくなな心が開かれる手段です。
「お互いの愛が冷えないように気をつけましょう」と、ペテロは当時の信じる者に注意したのです。なぜ、この「お互いの愛」がそんなに大切なのでしょうか。一つの理由がここ
であげられています。「愛は多くの罪をおおうからです」と。「愛」は、赦しの道を見出します。「愛」は、恨みを抱きません。「愛」は、他の人の恥を負いたいと思います。
 私たちの主は、多くの革命的な発言をしてくださったのです。一つは、マタイの福音書18章21節と22節です。33ページになります。
   そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあ
  い、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度
  まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」

ここで、避けることのできない問いが、もちろん現われます。「そんなことが、どうしてで
きるものでしょうか」と。私たちは、いかにすれば、お互いに持続的に、そして熱心に、愛し合うことができるのでしょうか。
 ペテロは、どうしてそのように愛し合うべきかの理由を私たちに言いました。「愛は多くの罪をおおうからです」と。それはすなわち、私たちが愛し合うことによって、聖霊の実が明らかになることを意味しています。よく知られているガラテヤ人への手紙、5章22節に、このように書かれています。御霊の実は、「愛」であります。一番大切なのは、それでしょう。
   御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

と。おそらくここで、ある人は異議を唱えるでしょう。「私は、私の夫を心から愛すること
ができない」「私は、私の妻を心から愛することができない」「私は、私の姑を愛すること
ができない」云々と。それは、言われる通りでしょう。この人やあの人を愛することは、
あなたに不可能なことかもしれないけれど、あなたが「あなたの愛」でもって、このことを試みることは、どこにも要求されていません。ただ「主の愛」によってのみ、それは可能となるのです。本当に生まれ変わった人は、誰でも、「神の愛」を経験しました。そして、「神の愛」を持っているのです。ローマ人への手紙5章5節に、書かれています。
   この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊に
  よって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

単なる事実として、こういうふうに書かれています。「神の愛が…注がれている」。「主の愛」でもって、あなたはどのような人をも愛することができるのです。あなたが、聖霊に
働く余地を与えれば、御霊の実としての「愛」が、あなたの生活の中で明らかになるのです。これこそ本当に、持続的に熱心に愛することのできる、ただ一つの道です。

 第四番目。主の再臨を待ち望む生活とは、「真の友情の生活」であります。
 ペテロ第一の手紙に戻りまして、「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」
とあります。主はまもなく来てくださり、その「とき」は近づいているので、自分の家を開放し、友だちや見知らぬ人に対して、あなたの心を開きなさい。
 初代教会の特徴は、福音が家々で宣べ伝えられたということです。これらの「家庭」も同じように大切で、必要不可欠なものなのではないでしょうか。
 こんにち、なんと多くの孤独な人・絶望的な人がいることでありましょうか。信じる者
が、そのような人たちのために、自分の家を開放することは、考えられないほど大切です。
多くの人は、一人の友達をも持たず、いたるところで歓迎されません。そのような人たち
の面倒を見て招き、その人たちのために時間を割き、その人たちのために過ごすことは、
信じる者の責任なのではないでしょうか。導かれる人たちが決断するときも、そのような人たちの面倒を見ることは大切です。彼らは引き続き導かれなければなりません。彼らは、愛と理解と配慮を必要としているのです。彼らの多くの問いは、家庭集会で答えられ、霊的な糧も家庭集会を通して、新たに回心した人たちにあらえられます。彼らだけではなく、神なく、望みなく、生きる目標もなく、無為に過ごす人たちが、数えきれないほどいます。私たち信じる者が、自分自身のことだけしか考えないならば、それは正しくありません。いわゆる「マイホーム」でさえも、私たちは、「自分のもの」と呼ぶことができません。それは、私たちが管理しなければならない、「委託された財産」に過ぎないからです。未信者たちは、説教によって導かれるよりも、愛されることによって導かれます。彼らが、私たちによって愛されており、心にかけてもらっている、ということを感ずるならば、彼らは福音に対しても、心を開くでしょう。人間はだれもが、友情・交わり・愛を求めています。私たちは、これらのものを彼らに与える責任を持っています。
 いろいろな人たちを自分の家に招く人は、へブル書の13章2節に書いてありますよう
に、「御使いたちを、それとは知らずにもてなす」ことになります。「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」と言われています。この言葉は、「真の友情」と関わり合いをもっています。しかもそれは、ただ単に家々が開放されることによってだけではなく、自分自身の心を開き、他の人々のために配慮をすることによって可能となります。
ペテロ第一の手紙4章8節において、要求されている「愛」は、このようにしても明らかになるのです。どこでも「真の交わり」「本当の友情」に飢え乾いている人たちがいます。私たちの心が「神の愛」と「神のあわれみ」によって満たされるとき、私たちは困っている人々をお世話し、「その人たちを主イエス様と結びつけたい」という願いを持つようになります。

 第五番目。主の再臨を待ち望む生活とは、「奉仕の生活」です。
 「互いに仕え合いなさい」と、命令されています。10節。
   それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、
  その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

とあります。10節は、すべての信者が「すべての人の幸せのために委託された賜物」と
して、一つの賜物、あるいは、いくつかの賜物を持っていることを指摘しています。信者
はだれでも、何らかの賜物を聖霊によって与えられています。けれどだれでも、これらの
賜物の「管理人」に過ぎません。それらの賜物は、用いられなければなりません。それら
が用いられずに遊んでいることは許されません。主がまもなく来てくださる、その「とき」が近づいているのですから、「委託された賜物」は用いられなければなりません。主イエス様は、信者たちの特権と責任について、次のように言われたのです。ルカの福音書19章12・13節を読むと次のように書かれています。
   それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受
  けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言
  った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』」

と。こんにち、多くの教会や集会における問題は、「無責任さ」です。多くの人々は、会社
のために、一生懸命がんばります。けれど、「主のこと」と「失われている多くの人々」が、忘れられてしまうとするならば、それは大変な問題です。こんにち必要とされているのは、主にすべてを明け渡し、主の望みになることだけを切に望む人たちです。主イエス様にすべてをゆだねる人は、用いられます。イエス様は、「ただ主だけに仕え、主の御手のうちにある器であることだけが大切である」という同労者を、探し求められています。
 私たちは、主の働きの妨げとなっているでしょうか。主は私たちをお用いになることができるでしょうか。

 第六番目。イエス様の再臨を待ち望む生活とは、「大胆な証しの生活」です。
 ペテロの手紙第一4章11節に、
   語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに
  備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。

と命令されています。これは、あらゆる信者は「主の口」となるべきである、ということ
を意味しています。私たちは、主のために証ししなければならない。もちろんこれは、い
わゆる「義務」というよりも、「すごい特権」であります。私たちは、主のために証しすべ
きであり、主を紹介すべき者です。そして、主ご自身がそのための力を、もちろん与えて
くださいます。自分の力で主のために働くのではなく、御霊に押し出され、力を与えられ
て語るのです。
 「私は、主のために語ることができない」と、嘆く人がいっぱいいます。「私は、主のた
めに生きたい。私は、主に仕えたい、けれど、私は語ることができない」と嘆く信者がいます。まさに同じことを、エレミヤが2600年前に言ったのです。エレミヤ記1章9節。
   そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたし
  のことばをあなたの口に授けた。」

エレミヤは、もちろん主を信じ、主を信頼し、主が彼を通して奇跡をなさることを経験し
ました。私たちも主に信頼し、助けを求めつつ主を見上げるとき、主が私たちに必要なも
のをすべて与えてくださる、ということを経験するのです。
私たちの周囲のいたるところに、イエス様の福音を必要としている人々がたくさんいます。
私たちがしなければ、だれがその人たちに福音を宣べ伝えるのでしょう。
 いったい、どうして初代教会の人々は、そんなに早く成長したのでしょうか。それは、すべての信者たちが「イエス様を知らせたい」という願いを持っていたからです。イエス
様は、「大胆な証し人」を捜し求めておられます。初代教会の人々について、次のように書
かれています。使徒の働き4章17節からちょっと読みます。
   しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語って
  はならないと、彼らをきびしく戒めよう。」 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの
  名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答
  えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかど
  うか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さない
  わけにはいきません。」

と彼らは、大胆に言ったのであります。イエス様を信じ救われた人々がみな、まだ救われ
ていない知り合いに、この救い主について語るならば、必ず主は働いてくださいます。
 けれども、だれでもこれをする義務を持っています。だれ一人言い訳はできません。私
たちは、「自分の救い」を喜んでいながら、知り合いの人々が「永遠の滅び」に向かってい
ることに無関心でいるほど、自己中心的なのでしょうか。
 旧約聖書の中で、みなさん読んだことのある箇所だと思いますけれども、590ページ
になります。列王記第二、7章。1節から読めば一番いいのですけれど、ちょっと長いですから、部分的だけ読みます。9節を読みましょうか。
   彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知
  らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは
  罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」

サマリヤの外にいる四人のらい病人が、最も素晴らしい発見をした、ということが記され
ています。すなわち、その発見というのは、「シリヤ人たちが莫大な富のある彼らの陣営を
残して去った」ということです。そこで、四人のらい病人は飢えを満たし、銀や金や衣服を自分のものにしてしまいました。けれども、「待て。ちょっと良くない」と。「私たちのしていることは、正しくない。今日は良い知らせの日だから」と。らい病人たちは、「福音」を自分たちだけの独占物にしませんでした。彼らは飢えている人たちに、それを持って行
ってあげました。それによって、多くの人々のいのちが保たれました。私たちはみな、主
の知らせを宣べ伝える責任を持っています。人々はそれを待っているのです。

 最後に、もう一つの点です。イエス様の再臨を待ち望む生活とは、「神の栄光を現わす生活」です。
 「すべてのことにおいて、神があがめられますように」と命令されています。私たちは
主イエス様の間近い再臨を信じ、その「とき」が近づいていると確信するとき、すべてのことにおいて、私たちの主が栄光をお受けになるために、全身全霊を持って、臨むようになります。
   それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるため
  です。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

とあります。私たちはこの節(ペテロの手紙第一 4章11節)を、コリントの第一手紙10章31節と比較することができるでしょう。
   こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の
  栄光を現わすためにしなさい。

とあります。けれど、「ただ神の栄光を現わすためにする」とは、いったい何を意味しているのでしょうか。聖霊の助けにより、主が喜んでくださるように、私たちは考え、話し、行動するということが、私たちの関心事とならなければなりません。「主のご栄光が現われること」こそ、私たちの心からの関心事でなければならないのです。私たち自身におけることは、大切ではありません。大切なのは、主がすべての事柄において優先権を持たれることです。

 もう一箇所読みましょうか。コロサイ書 3章17節。
   あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエ
  スの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

とあります。ここに、全生涯が含まれています。私たちの日常生活は、次のような切なる
願いによって特徴づけられるべきです。すなわち、「どうすれば、主をお喜ばせすることができ、どうすれば、主がご栄光を現わすことがおできになるのでしょうか」と。
 私たちは、他の人たちが私たちを通して、同じように「救い」にあずかるために救われ
ました。どうすれば、主から遠く離れている人たちが、私たちを通して「救いの確信」を
持つようになるのでしょうか。それは、私たちが「主の再臨を待ち望む生活」をすることによって、すなわち私たちが、「真に待つ者」になることによってです。「主は、場合によると、今日、いらっしゃるかもしれない」。この事実は、人生を変えます。

 「私たちは、主を待ち望むために救われた」と、使徒たちはみんな、強調したのです。

最後にもう一箇所だけ読んで終わりましょうか。テサロニケ第一の手紙 1章9・10節を読みます。363ページになります。
   私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのよう
  に偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者
  の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い
  出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのこと
  は他の人々が言い広めているのです。

「あなたがたが…待ち望むようになった」という事実を、毎日考えるべきなのではないでしょうか。


                                       了



サイトマップ
更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集