藤枝家庭集会
2003.5.27(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
列王記 第二 5章1節から14節
アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼
によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病に
かかっていた。アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を
捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、その女主人に言った。「もし、
ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さま
のらい病を直してくださるでしょうに。」それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラ
エルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。アラムの王は言った。「行
って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラン
トと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。彼はイスラエルの王あての次の
ような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンを
あなたのところに送りましたので、彼のらい病から彼をいやしてくださいますように。」イス
ラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かした
りすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、
考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」神の人エリシャは、イス
ラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうし
て服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼は
イスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」こうして、ナアマンは馬と戦車をもって
来て、エリシャの家の入口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川
へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになって
きよくなります。」しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼が
きっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このら
い病を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルの
すべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろう
か。」こうして、彼は怒って帰途についた。そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に
言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あな
たはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくな
りなさい。』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言
ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼
子のからだのようになり、きよくなった。
今、読んでくださった箇所は、確かによく知られている箇所で、旧約聖書の「福音を宣べ伝える書」そのものなのではないでしょうか。私たちがいつも強調していることとは、「イエス・キリストとは、キリスト教という『宗教』と関係のないお方である」ということです。「宗教」によって、人間は騙されます。めくらにされます。まことの神は、人間に、生きる喜び・心の平安・心配からの解放・生ける希望を与えてくださいます。悪魔は、人間に何を与えるかと言いますと、「宗教」です。ソ連のレーニンの言った言葉は、本当です。「宗教」は、麻薬です。避けるべきものです。けれども、イエス様は「宗教」と関係のないお方であり、私たちはイエス様のところに行くと、喜ぶようになるのです。なぜならば、イエス様だけが、人間の過ち・わがままを赦すことができるお方であるからです。
「宗教」の中心とは、小さなどうしようもない人間です。このどうしようもない人間か
ら要求されます。「人間は、何を信ずべきか?何をやるべきか?」と。これが、「宗教」の
内容です。聖書の内容は、違います!「イエス様の十字架」こそが、聖書の中心テーマで
す。この「十字架」のことを聞くと、確かに多くの人々はつまずくのです。けれどもパウ
ロは、「十字架しかない」と決心したのです。コリント第一の手紙2章2節。
私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほ
かは、何も知らないことに決心した…。
「十字架につけられたイエス様」が紹介されれば、人間は元気になります。なぜならば、
イエス様に心配されていること、愛されていることが分かるようになるからです。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、
神の力です。
と、コリント第一の手紙1章18節にあります。初代教会の人々は、喜んでこのように告白することができたのです。パウロは、次のように告白したのです。ガラテヤ人への手紙6章14節。
私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあっ
てはなりません。
今、読みました列王記第二の5章の言わんとしていることは、それなのです。もちろん、
この書の中心なる人物とは、言うまでもなくエリシャでしょう。けれど、初めに出てくるのは、ナアマンという男です。敵国の将軍でした。今のシリヤの国の将軍でした。
今日、3つの点を ちょっとだけ一緒に考えたいと思います。
1. ナアマンという将軍が試みた「救いの努力」とは、いったいどういうものだったのでしょうか。
2. 「まことの救い」・「救いの本質」とは、いったい何なのでしょうか。
3. ナアマンが味わった救いとは、どういう体験だったのでしょうか。
1.ナアマンが試みた「救いの努力」とは、いったいどういうものだったのでしょうか。
彼はどういう者であったかと言いますと、5章の1節をもう一回読みましょうか。
アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。
どうしてであるかと言いますと、敵国に対して勝利を得たからです。けれども彼がどうし
て勝利を得たかと言いますと、「主に用いられた」からです。本人は、それが分からなかっ
たけれど、ここに書かれているのです。
主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士では
あったが、らい病にかかっていた。
彼は困ってしまいました。いくら権力があっても、王様によって大切にされても、らい病にかかると、ちょっと大変なのです。当時の一番恐れられていた病とは、らい病だったのです。らい病人は、みな追い出されてしまったのです。家族から離れなければならなくて、独りぼっちになったのです。結局、らい病人たち同士で一緒に生活するようになっていたのです。他の人が近づくと、「汚れている者です!汚れている者です!」と、大きな声で叫ばなければならなかったのです。そうしたら、みんな逃げてしまいました。関係を持ちたくないからです。らい病にかかりたくないからです。らい病人は、みじめになった人々ばかりだったのです。
確かにナアマンという男は、名望のある、しかも立場の良い、権力もあり、功績も多い
といった、恵まれた男でした。彼は、欲しいものを全部持つようになったのです。成功し
た男でした。けれど、彼のいのちには、もうすでに「死」が働き始めていました。そして
「死」は、能動的です。働きかけます。「死」は、その環境を支配するものです。ですから、
ナアマンの立場・功績などは、結局、何の役にも立たないものになってしまったのです。
彼が今持てるものは、なるほど、今だけのものでした。そこにあったけれど、まもなく、消え失せてしまうのです。「らい病にかかっているから、時間の問題だけで、死ぬのだ」と、彼は、はっきり分かったのです。そして「らい病」とは、いつも「人間の罪」を現わす言葉です。ですから、この「らい病人であるナアマン」は、いわゆる「生まれながらの人」・「生けるまことの神とのつながりを持っていない人」を意味するものです。あらゆる力・手柄を持っていたにも関わらず、「死」が働きました。
ある人々は、「罪」を見逃しにしてしまいます。「大したものではない。みな、犯してい
るではないか」と。「罪がない」と言う人もいます。「罪」という言葉が分からない人もい
っぱいいます。ある時、90何歳のおばあちゃんが吉祥寺に住んでいて、彼女に聞いたの
です。「おばあちゃん、人間はみな、罪を犯す者でしょう?」と。彼女は「罪とはなあに?」
と素直に聞き返したのです。ちょっと困ってしまいました。だいたいの人間は、「罪とは『悪
い行ない』『犯罪のようなもの』ではないか。私は警察に捕まえられたことがないし…云々」と言います。けれども、彼女は違いました。ですから、「おばあちゃん、『罪』とは、『わがまま』のことですよ」と話しました。彼女は「あ、そうか、分かった」と言ったのです。結局、「自分は、わがままではない」と言える人はいないはずです。余程めくらにされていなければ…ですが。結局、「罪」とは「主から離れている状態」のことなのです。
この将軍ナアマンは、らい病の最初の兆候が現われたとき、それをもちろん誰にも見せ
なかったのです。きれいな着物の下に隠しておいたことでしょう。患部は小さいですし、
「もしかすると何とかなる」と思ったかもしれません。けれども、「自分は、らい病人であ
る」ことを彼は分かりました。夢ではない。現実です。
そして彼は、この病気のゆえに、自分の持っている地位・業績などは、全く価値のないものであると、もちろん分かったのです。もしも彼が、心からの幸福を得たいと思うならば、やはり、らい病を治さなくてはなりません。解放されたいのちを持ちたければ、この病を何があっても治さなくてはならないと、彼は分かったのです。
私たちの場合も、これと同じではないでしょうか。主との交わりを持とうとするならば、
まず「罪の問題」を解決しなければならない。その第一歩は、自分がどうしようもない者
であり、過ちを犯す者であり、自分でいくら頑張っても何にもならないという事実を認め
ることです。「救われるためには、どうしたらいいのでしょうか」と、そういう思いにならなければ、決して救われ得ないのです。
けれども、このらい病人は、救われました。どうしてでしょうか。一人の女の子が用いられたからです。イスラエルは負けて、いろいろな人々は虜になって、外国まで導かれるようになったのです。その中の一人の女の子が、この運命に関わるようになったのです。彼女は、ナアマンの奥さんの召し使いになってしまったのです。彼女は、イスラエルの神を素直に信じ、このイスラエルの神に仕えたいと、心から望んでいたのです。確かに敵国にいるし、イスラエルに勝利を得た人に仕えなくてはいけないのは、ちょっと大変ではないでしょうか。けれども彼女は、ナアマンではなくて、生けるまことの神に仕えるために、一生懸命働いたのです。そして彼女は、ナアマンがらい病人になった時、どうしたでしょうか。「ちょうどいいのではないですか。私は捕らえられてしまったのだから。彼は死んだ方がいいのではないでしょうか」と、彼女は思わなかったのです。同情して、奥さんに近づいて、自分の信じる神を紹介したのです。彼女は「納得させよう」という気持ちは、もちろんありませんでした。無理だと分かったからです。結局 彼女は、主なる神のみわざを告げ知らせました。すなわち、主が、預言者であるエリシャによって、どういう奇跡を成してくださったのか、そういう数々の奇跡をも告げ知らせたに違いありません。
「エリシャの助けを請いなさい」という彼女の忠告は、主人ナアマンに採り上げられま
した。どうしてかといいますと、彼女の証しが立派だったからです。彼女はどういう思いを持っていたかといいますと、「ご主人様がサマリヤにいる預言者と共におられたなら、良かったでしょうに。彼、預言者エリシャは、らい病を必ず癒すに違いありません。ご主人様が、主なる神に用いられている人、エリシャに会えば、幸せになるに違いありません」と、そういう気持ちでいっぱいだったのです。
それまで将軍は、いろいろな薬、いろいろな医者、また人から出た宗教などに頼ったに
違いありません。「何とかしなくては。いったいどうしたら、この病が癒されるのか」と、彼はそればかり願い、考えていたのです。そして、大きな贈り物を持って、外国まで出かけて、エリシャを探したのです。ナアマンは、自分の病気が容易ならぬものであることが分かったけれど、彼は、「主を知らない、生まれながらの人」でした。ですから彼は、自分の身分・自分の手柄・高さ・大きさを、エリシャに知らせたかったのです。将軍は、名誉・自由を持っていました。彼は、それをエリシャの前で見せびらかせたかったのです。高価な贈り物とともに、大した財産を持っていたからです。
そのときエリシャは、どういう態度をとったのでしょうか。エリシャは、この名誉と地
位のある男はいったいどのような人か、見に行こうとしませんでした。彼に会おうとしな
かったのです。ちょっと考えられません。失礼ではないでしょうか。ひどいではありませんか。もちろんナアマンは、一人ではありませんでした。あんまり偉い人ですから、何人
一緒にいたか分かりません。「戦車までも行った」と書かれています。9節から読むと分か
ります。
こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。エリ
シャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いな
さい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」しかしナア
マンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、
彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれ
ると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川に
まさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」
こうして、彼は怒って帰途についた。
「ダマスコの川」とは、ナアマンの国の川のことです。ある意味でナアマンが怒ったのが分かります。けれども、これこそが「十字架のつまずき」です。「十字架」からほんの少しだけはずれても、救いは絶対にないのです。もし私たちが、十字架のみもとに行くならば、私たちが持っているあらゆる名誉・地位・財産を捨て去らなければなりません。「生まれながらの人」は、十字架のみもとにいる余地を持ち合わせていないのです。
「ヨルダン川に入りなさい」とあります。「ヨルダン川」は、いつも「イエス様の十字架」
を象徴するものです。ナアマン将軍がヨルダン川に行くということは、彼が自分の持っているあらゆる名誉・地位を捨て去ることを意味していました。ヨルダン川の水は、「生まれながらの人」に対する「主のさばき」を象徴するものであります。
エリシャのナアマンに対する態度は、主の人間に対する態度です。主の御前には、名誉・
地位・成功・誉れは何の役にも立ちません。ナアマンは、それを聞いたとき、非常に立腹
しました。「けしからん。絶対、赦さない!」という思いになったのです。ナアマンは癒さ
れるために、何をしようとしたのでしょうか。現代人は、救われるために何をしたらいいのでしょうか。
2. 「まことの救い」・「救いの本質」とは、いったい何なのでしょうか。
それを明らかにするための別の箇所を見てみましょうか。今度は新約聖書の使徒の働きです。よく知られている16章から、見てみましょう。
確かにナアマンは、「いかにして癒されるのでしょうか。いかにして、まことの救いを得ることができましょうか」という思いを持っていました。この16章の中でも、同じような困った人が出てきます。19節から。
彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、
役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。そして、ふたりを長官たちの前に引
き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つ
ように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番を
するように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを
掛けた。真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほか
の囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ
動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。目をさました看守
は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、
剣を抜いて自殺しようとした。そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たち
はみなここにいる。」と叫んだ。看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラ
スとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して、「先生がた。救われ
るためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。
そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。そして、彼とその家の者
全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷
を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じた
ことを心から喜んだ。
看守は、今まで味わったことのない喜びを得たのです。このピリピの獄吏(看守)は、「救
われるために、何をしなければならないのか」と聞いたのです。
彼は、まず「私」という言葉を使ったのです。「私が救われるためには、何をしなくては
ならないのですか?」と。この「私」は、「失われている人」であり、「罪・悪魔・自己の奴隷」です。「『私』は、主なる神を見ることのできない、めくらでした。霊的に死んだ者でした。主なる神から出るいのちから遠く離れていた者でした」と。私たちがナアマンを見れば、「霊的な死」とは何かが、ひとめで分かります。「霊的な死」とは何でしょうか。「霊的な死」とは、「生まれながらのいのちを持っていること」です。
普通の人にとっては、ナアマンのいのちは大したものでした。普通の人の目から見れば、
ナアマンは、ほめたたえるに十分価値ある人でした。彼の生活は、成功していましたし、
彼は力を持っていました。けれど、彼はすべてを持っていたにも関わらず、残念なことに、「霊的な死」を持っていたのです。霊的に死んでいたのです。すなわち、「らい病人」だったからです。
ピリピの獄吏が救われたとき、彼は自分が駄目な者であり、救われていない者であると
いうことを認めました。だから、「救われるためにはどうしたらいいのですか?」と。結局、「私は救われていない!」と彼は、はっきり分かったのです。
ナアマンも癒されたとき、自分が大変な病人だったことをはっきり分かりました。もし、
救われたいと思うなら、自分は失われている者であり、めくらであり、奴隷であり、また霊的に死んでいる者である、ということを知るべきであります。
次に、ピリピの獄吏は、「救われる」という言葉を使ったのです。「救われるためには、何をすべきなのでしょうか」。ここでは、自分は良い人間になるために、何をすべきかと考えなかった。「救われるためには」何をすべきなのでしょうか。ここでは、「私は、いかにして奴隷の身から解放されるのでしょうか。私は、めくらの身から、めあきの身になることができるのでしょうか。私は、死のさまから生きることができるのでしょうか」と叫んだのです。
それから、彼は、「成す」という言葉を使ったのです。「何をしなくてはならないのでしょうか」と。私は救われるために、「何を成すべき」なのでしょうか。もちろん何もできないなのは、決まっています。鎖で縛られた奴隷が、自分の身を自由にするために、何ができましょうか。めくらが見えるようになるために、自分で何ができましょうか。死人が自分で生きることがどうしてできましょうか。絶対に、何もできません。
「救いの本質」とは、何なのでしょうか。3つのことが言えます。
・ 救いは、主なる神が満足される十分なるものでなければなりません。人間がいかにして
誰によって救われるかは、主なる神だけしか知っておられません。
ピリピの獄吏は、自分の身を救うために、自分の道を行くことは許されなかった。ただ、「主イエス様を信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」と言わ
れたのです。獄吏は、この言葉によって導かれ、救われました。たったの2〜3時間以内
に、です。
ナアマンは、自分の故郷の川で水を浴びることにより、その病を癒すことを許されませんでした。「ヨルダン川に行って、7たび身を洗いなさい」と言われるばかりだったのです。
同様に、私たちも自分が救われるために、自分勝手な道を選ぶことはできません。私たちの救いの道は、「十字架」です。「十字架につけられたイエス様」だけが、「救い」そのも
のです。
・ 「救い」は、罪とともに罪の結果も消滅してしまうような、完全なものでなければなり
ません。「救い」は、人の罪を消し去り、その人に新しいいのちを与えるものでなければなりません。
獄吏の場合も、心の罪が赦され、心の内に新しい創造が、信仰によって成されなければならなかったのです。ナアマンの病気も、ヨルダンで身を洗い癒され、ナアマン自身が新しい人間に成らねばならなかったのです。私たちの罪も、十字架で贖われ、私たちの内に新しい創造がはじめられなければならないのです。
・ 「救い」とは、罪に対して成された「死刑の執行」でなければなりません。主なる神は、
「一度罪を犯したたましいは、必ず死ぬ」と言われます。罪の刑罰を受けなければならない。刑罰は執行されなければならないのです。
獄吏は、イエス様の身代わりの死を信じました。ナアマンは、死の川ヨルダン川に降り
て行きました。もし私たちが、主の救いを自分のものにしようと思うならば、十字架のも
とに来なければなりません。「ヨルダン川に行って、7たび身を洗いなさい」。ナアマンは、
それを聞いたとき、はじめは、「ひどい!絶対にしません!ばからしい!!」と思ったのですけれど、彼は行きました。どうして行ったかといいますと、やはり一緒に行った人々に勧められたからでしょう。「今ある問題は、生か死の問題です。行った方がいいです!」と。ここで「7たび」と書いてあります。7という数字は、完全を意味する数字です。ナアマンは、ヨルダン川に1度だけ身を浸したとは、書いてありません。3回身を浸して諦めてしまったとも、書いてありません。彼は、思ったでしょう。「これが、私の救いの道であるならば、私は無条件に行く」と。「なぜならば、生ける屍のままで故郷に帰るよりは、ましであるからだ」と。ナアマンはヨルダン川に2度だけ身を浸して、「何も起こらない。やっぱりらい病が治らない。はじめから考えた通りだ!」などと、彼は思わなかったのです。1回、2回、3回…、6回まで身を洗いました。しかし、何も起こりませんでした。それにも関わらず、ナアマンは、最後の目標目指して、7回身を浸しました。結局、彼の信仰は、最後まで彼を試みました。
7たび身を浸すと、らい病が治ったばかりでなく、「彼の肉体は、幼子のようにきよくな
った」とあります。「幼子のような肉体」とは、結局「新しい創造・新しいいのち」を意味
しているのです。今や彼の生活は、全く新しいものとなりました。彼の前に、今まで知らなかった世界が広がりました。今まで知らなかった喜びを持つようになり、今まで味わわなかった心の平安を持つようになったのです。彼は、癒されました。ナアマンは、主の示された道を歩んだので、癒されたのです。ナアマンの癒しは、らい病が癒されたということばかりではなく、新しいいのちをも与えられたのです。すなわち、ヨルダン川に入ることによって、彼に対する「死刑」が執行されたのです。
この話は、未信者に対して「救いの道」を示しているだけではなく、信ずる者にとって
も、非常に大切なのではないでしょうか。「十字架」は、罪人に救いを知らせているだけで
はなく、信者たちに自分の持っているものは、全然役に立たないものであることを教えて
います。すなわち、自分の意思・自己・目的・力・考え・感ずること、これらは信仰生活
の重荷であり、役に立たないものであり、妨げです。
エリシャは、ナアマンが来たとき、ナアマンを窓からのぞいて見ようとしなかった。こ
れは、主なる神の態度です。私たちの肉、すなわち「私たちの志すこと」「力」は、主の憎
むところのものです。これらは「ヨルダン川」の意味であり、「十字架」の意味です。
ナアマンは最初、「ヨルダン川に入って身を洗っても仕方がない」と思っていたことでし
ょう。けれど彼は、無条件にヨルダン川に入り、解放された新しい人に変えられたのです。
信じる者として、私たちは「主のいのち」、すなわち「永遠のいのち」を持っていますけ
れども、私たちはますます多く、「主の満ち満ちたいのち」に支配されなければならないの
です。そのために必要なのは、自分の自己を捨てることです。なぜならば、自分の意思と
主のみこころとは、対立しているものであるからです。
私たちは、「罪」をしっかりと握ったままでいるのでしょうか。自分の立場・地位を捨てて、主とともに前進しようではありませんか。私たちが、「主の力」を自分のものとするために、自分の感じ・考えを捨て去りましょう。私たちは、信じれば信じるほど、「主の力」
を多く持つ者になります。
ナアマンは、7たびヨルダン川に身を浸しました。信仰によって最後の回まで身を浸し
たのです。ナアマンと同じく、信仰によって最後まで突き進んで行くことは、非常に困難
なことかもしれない。今まで自分が「正しい」と思いこんでいた「不変」を全部捨てなけ
ればいけないのです。
3. ナアマンが味わった救いとは、どういう体験だったのでしょうか。
前進する一歩一歩がまず多くの信仰を必要としますけれど、これが「いのちの道」であ
り「成長の道」でもあります。主とともに一歩を前進するならば、ナアマンの場合と同じ
ように、新しい世界が切り開かれます。
ナアマンは確かに変わりました。どういうふうに変わったかと言いますと、彼の態度が変わったのです。まずエリシャに対する態度が変わりました。それから、もちろん主なる神に対する態度も変わりました。それから、知らないうちに、自分の財産に対する態度も変わったに違いありません。
・まず、エリシャに対する態度が変わったのです。彼は、エリシャに対して非常に立腹し、
そのままで帰ってしまおうと思ったのです。けれど彼は、今や、主に用いられた人であるエリシャと交わりを持ちたく思ったのです。もはや己を高くすることなく、エリシャと交わろうと望むようになったのです。どうしてでしょうか。なぜならば、ナアマンは「新しいいのち」をもらい、エリシャがエリヤから得たのと同じように、「よみがえりのいのち」を持ったからです。エリシャもナアマンも、ともにヨルダン川を渡ったからです。
「同じいのち」は、交わりの結論です。従って、信ずる者の間には、年齢や職業による差別は、全くないはずです。ですから、聖書は、信者と未信者との結婚を忠告します。「同じいのち」のないところには、交わりもあり得ないからです。
・そして、ナアマンのエリシャに対する態度が変わっただけではなくて、主に対する態度
も変わったのです。彼は主を知らなかったし、主を恐れなかったし、「主よ、どうしたらい
いですか…」という、そういう思いが全然なかったのです。けれども彼は急に主を礼拝するようになったのです。15節。
「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。」
と彼は告白したのです。主を崇拝するようになりました。たとえ人が、聖書の教えを受け
入れたとしても、その人が主を崇拝するとは限りません。たとえ人が、集会に来て出席し、
洗礼まで導かれたとしても、その人が主を崇拝するとは限りません。けれども人が、いっ
たん「よみがえりの力」を経験すると、その人は主を崇拝し、ただ、ただ、己を捧げるよ
うになります。これが本当の「証し」なのではないでしょうか。私たちのする「証し」と
は、語ることでもなく、ひとつの教えでもなく、「主ご自身」です。主の「よみがえりの力」
を知った人は、主を崇拝する崇拝者になります。
・最後に、ナアマンは、財産に対する態度も変わったのです。結局、ナアマンは態度を変えて、主に贈り物を捧げようとしたのです。主は、今やナアマンの財産に対する権利も持つようになられたのです。彼は持ってきた財産を全部、エリシャに贈ろうと思ったのです。けれどもエリシャは、ちょっと変わった態度をとったのです。彼は断ったのです。「結構です。あなたの財産、あなたの金を欲しくありません」。このエリシャは、後で、あるやもめからは、贈り物を受け取りました。どうしてでしょうか。なぜならここで、ナアマンから贈り物を受け取れば、結局ナアマンは、自分の身体を癒すために、自分が何か役割を演じたのだと思ったかもしれない。主は、そのような考えを非常にお嫌いになります。救われるために、人間は何にもできません。「主があわれんでくださったので」、救われたのです。
この話は、これで全部終われば非常にありがたいけれども、その5章の最後にちょっと
大変な問題が出てきます。エリシャは、一人のしもべを持っていたのです。ゲハジという
男です。彼は、ナアマンの身に起こった奇跡を見聞きし、またナアマンが故郷へ向かった
ことを知りました。そして、このゲハジは、故郷へ向かうナアマンのあとを追って行き、
追いつき、ナアマンに長い偽りの話をしました。そしてゲハジは、ナアマンがエリシャに贈るべき携えてきた贈り物を、自分のものとしてしまったのです。そして彼はとんでもない刑罰を受けるようになりました。5章27節。
「ナアマンのらい病は、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。」彼は、
エリシャの前から、らい病にかかって雪のように白くなって、出て来た。
大変です。彼は、いっぺんに大金持ちになったのです。けれどもらい病にかかると、もう全く役に立たないのではないでしょうか。
ルカ伝の中で、イエス様は、このナアマンのことについて、少し話してくださいました。
すなわちイエス様は、旧約聖書を全部、もちろん信じておられたのです。ヨハネによる福音書17章17節。
あなたのみことばは真理です。
イエス様が旧約聖書の全部を信じておられたから、私たちも安心して信じることができます。ルカ伝4章を見ると、イエス様は次のように言われました。新約聖書の105ページです。4章27節からお読みいたします。
「また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そ
のうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」これ
らのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町
の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落と
そうとした。しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。
ゲハジは、エリシャより教えを聞き、奇跡を見ました。また、知識を持っていましたが、
経験を持っていなかった。本当の意味で、救われていなかったのです。
イスラエルの民も、イエス様の教えを聞き、イエス様の成された奇跡も見ましたが、心をかたくなにして明け渡そうとしなかったのです。悔い改めようとしなかったのです。結局、イエス様は彼らに何を言われたかといいますと、「あなたたちは、わたしのことばを聞きました。また、『いのち』と交わりました。あなたたちは、わたしのわざを見たでしょう?
あなたたちは多くを知っているけれど、生きた経験を持っていません。従って、あなたたちに対する刑罰は、死であり、らい病です」と。残念ですが、これはこんにちにまで及んでいるイスラエルの民の運命です。もちろん将来イスラエルの民は、民として国民として悔い改めて、みんな救われるようになるのですが。
ゲハジは、頭の中に知識は蓄えていましたが、ほんとうの力を持っていなかったのです。
やもめの息子が死んだとき、エリシャは、ゲハジに言ったのです。「息子の上に杖を置きな
さい。子どもを生き返らせなさい」と命令したのです。ゲハジは、「はい。かしこまりまし
た」と、子どもの顔の上に杖を置きましたが、生き返りませんでした。死人は、死んだま
までした。けれど、「よみがえりの力」を持っていたエリシャがやってみたとき、子どもは生き返りました。
ユダヤ人の指導者たちもイエス様を見聞きしましたけれど、自分の栄光のみを求めたから、ゲハジと同じように、のろいのもとに置かれたのです。すべてのことを見聞きし、知ることはできますが、いくらそうであっても、内側が空っぽの場合もあり得るのです。
イエス様は、ご自分の力をもっとよく知るように、私たちに呼びかけておられます。私
たちが自分の興味・自分の考えを捨てるならば、イエス様をもっともっと、よく知ること
ができ、「主の力」を自分のものにすることができます。
この意味は、「『死』なくして、『いのち』はあり得ない。『損失』なくして、『得る』ことはできない」ということです。
パウロは、次のように祈って心から願ったのです。「私は、キリストとその復活の力を、よりよく知りたい」と。そういう思いを持っていれば、主は、豊かに恵んでくださるのです。
了
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