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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


神のみことばは神のみことばである(6)
   
2006.4.25(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
マタイの福音書 4章1節から10節
 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

コロサイ人への手紙 2章3節

 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

コロサイ人への手紙 2章9節

 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。


今、司会の兄弟が言われたように、みことばを運ぶということこそ最も大切ではないでしょうか。そのために救われたからです。みことばを聞くこと、受け入れること、みことばの力を経験することは確かに素晴らしいことですが、みことばを味わった人は、やはりみことばを運ぶ者になるべきではないでしょうか。

今まで、私たちは二つの点について一緒に考えました。
第一番目、語られたみことばについて。
第二番目、受け取られたみことばについて。

そして最近、書かれたみことばについて考えるようになりました。即ち、人間は主から
受け取ったみことばを書き記したのです。

結局、聖書に出てくる使徒たちと預言者たちは、みことばを聞いただけではなかったのです。運ぶ者となり書く者となったのです。使徒たちと預言者たちは、みことばを、聖霊を通して受け取っただけではなく、さらに聖霊を通してみことばを宣べ伝えました。そして、後で書くようになったのです。
みことばの霊感は、初めから終わりまで、主のみわざそのものです。したがって、主のみことばの伝播は、主のみこころの表われであり、主のみことばを与えること、また受け取ることと同じように主のみこころです。
聖霊の働きを通して受け取られたみことばは、変わることなく、語られたり書かれたりしたみことばです。受け取られたみことばが、主によるものであるなら、宣べ伝えられたみことばも主によるものです。

霊感の奇蹟の一つは、語られた神のみことばが、語られたり、書かれたりした人間のことばに変わることです。神のみことばである聖書は、内容的には完全に神のみことばであり、形式的には完全な人間のことばです。

今まで私たちは、人間となった神のみことばとしてのイエス様について、考えたことがあります。イエス様の御名は、沢山の名称をもって表現されています。その一つの名称は、
「神のみことば」です。
ヨハネの福音書 1章14節

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

このヨハネ伝1章に出てくる「ことば」とは、決して神のことばでもなく、人間のこと
ばでもなく、「イエス様ご自身」です。
イエス様は、人間となられた神のみことばです。イエス様は、本質上完全な神の御子で
あり、形式上はこの地上におられる間、完全な人の子だったのです。
聖書は、「ことばが人となった」という事実を、私たちに告げ知らせていますが、この大変な転換がどのようにしてなされたのかについては説明していません。「ことばは人となった」「聖霊と処女マリヤを通して生まれた」とだけ書いてあります。聖霊は、主なる神の創造的な力であり、マリヤという人間は受け取り人となり、生むために用いられた器となったのです。

それから先日、文字となった神のみことばとしての聖書についても考えました。
聖書は文字となった神のみことばであり、聖霊の働きによって出来上がりました。聖書
は、人の子である主イエス様と同じように完全で、誤りがありません。聖書は内容的にも形式的にも完全です。それは主のみことばであるからです。

この語られたみことば、受け取られたみことばは、結局、書かれるようになったのです。
「主ご自身が書いた」と聖書にも記されています。先日も読みました箇所ですが、
出エジプト記 31章18節

 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

と記されています。「神ご自身がお書きになった」とあります。

モーセも主のみことばを書き記したと聖書は記していますし、サムエルも書きましたし、
エレミヤも書いたのです。またダニエルも書きました。
人間となった神のみことばとしてのイエス様、また文字となった神のみことばとしての聖書について考えたのですが、今日、また別の点からちょっと考察してみたいと思います。

即ち、旧約聖書についてのイエス様の証しとは、いったいどういうものなのでしょうか。
イエス様は、旧約聖書について何をお考えになったのでしょうか。
ヨハネ伝の中でイエス様は祈られています。
ヨハネの福音書 17章17節後半

「あなたのみことばは真理です。」

終わり。旧約聖書は、イエス様にとって神のみことばそのもの、真理そのものでした。
イエス様が旧約聖書を信じることがおできになるなら、私たちは安心して信じることができるのではないでしょうか。

聖書のことばは、どれもみな本当に「神のことば」なのでしょうか。
私たちは、この問いに答えるためにただ一つの道を持っています。即ち、私たちは聖書
自身に尋ねなければならないのではないでしょうか。つまり聖書に記されている一つ一つのみことばは、「本当に神のことばなのである」ということを告げているのです。
そしてまた、聖書の一つ一つの文字が、主の権威を持ち、それゆえに永遠に続くもので
あるということを要求しているのです。

私たちはこのことについて、イエス様ご自身よりも偉大な方に尋ねることはできません。
今、司会の兄弟も読まれた箇所、イエス様こそ最高の権威です。
コロサイ人への手紙 2章9節

 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

コロサイ人への手紙 2章3節

 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

とパウロは、コロサイにいる人たちに書いたのです。
イエス様は、主なる神の権威をもって旧約聖書全体を、「神のみことば」と言っておら
れます。主のみことばは、誰一人改善したり、補ったり、変更したりすることのできない
最高のみことばなのです。
イエス様は、旧約聖書を百パーセント信じておられました。そして旧約聖書の一つ一つ
のみことばは、イエス様にとって絶対的な父なる神のみことばでした。
イエス様を信じるということは、旧約聖書に対して同じような信頼を置くことを意味します。
イエス様は、一つ一つのみことばが聖書に書いてあることをすべて保証してくださり、旧約聖書全体が真理そのものであることを、はっきりとおっしゃいました。ですから、私たちは聖書のことばが、どれもみな神のことばであることをほかの方法で証明する必要はありません。真理そのものである主イエス様が、聖書の霊感を百パーセント信じておられますから、私たちもまた聖書の霊感を信じることができるのです。
世の光であるイエス様は、いろいろな疑いの壁をすべて追い払わなければなりません。
主のみことばは、あらゆる人間のことばや理解力に勝るものです。

聖書の霊感に対する決定的に大切なことは、イエス様のお取りになられた態度でした。
聖書はイエス様にとって力の源でした。
イエス様が旧約のみことばを引用なさるとき、その確信は巌のように堅固なものでした。
主のみことばは真理そのものであると信じて疑われなかったのです。「あなたのみことばは、
真理そのものである」と。

イエス様が聖霊により荒野に導かれたとき、悪魔という恐ろしい敵に立ち向かうただ一
つの武器は、「みことばの力」でした。今、兄弟が読まれましたように、マタイ伝の4章はそのことをはっきり記しているのです。結局、イエス様の武器とはみことばだけでした。
マタイの福音書 4章4節

「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』  と書いてある。」

大切なのは何が書いてあるかということです。もちろん、悪魔も聖書の箇所を引用して
言ったのです。本当に強いです。結局、悪魔さえもみことばを引用して証明します。悪魔は自分勝手に解釈しますから。もし悪魔がここまでするなら、みんな驚くことと思います。「すごい! 聖書学者ではないか」と思うかもしれません。悪魔は聖書のことを徹底的に知っていますが、イエス様に対する信仰は全くありません。みことばこそが信仰そのものです。イエス様の武器とは、結局みことばでした。
マタイの福音書 4章6節

「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」

これは悪魔が聖書を引用して言っていることばです。しかし、イエス様は言われました。
マタイの福音書 4章7節

「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」

マタイの福音書 4章10節

 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

「聖書は何と言っているか」。絶えずこの態度を取ると、多くの問題は解決されるのではないかと思います。人間の思っていること、考えていることはあまり大切にしないようにしましょう。
もし、主イエス様がみことばに対してほんの少しの疑いでも持っておられたなら、すべ
ては崩れ去り、敗北者となっていたことでしょう。みことばこそイエス様が勝利を治める
ことのできた武器でした。みことばに頼らない者は、悪魔の餌食になってしまうのです。

イエス様は、旧約聖書の歴史的な出来ごとをも百パーセント信じられたのです。
マタイ伝22章を読んでみましょう。
マタイの福音書 22章31節、32節

「それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」

マタイの福音書 22章29節

 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」

「あなたがたは読まなかったのですか」。これは、パリサイ人に対する、イエス様の驚き
でした。そして、イエス様は創造のみわざを完全な霊感をもって信じておられたのです。
マタイの福音書 19章4節、5節

 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。」

そしてまた、イエス様はノアの洪水の報告をも信じておられ、ノアの歴史的な人格をも
信じておられたのです。更に、イエス様は、創世記がイエス様のことに通じていて、それを報告していることをも信頼しておられたのです。
ルカ伝の17章を読むと、次のように書かれています。
ルカの福音書 17章26節、27節

「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」

それゆえ主イエス様は、モーセが本当にご自分について書き記したことを私たちに証明
しておられます。ヨハネ伝の5章です。
ヨハネの福音書 5章46節、47節

「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」

モーセを信じない者は、イエス様を偽り者にします。

また、イエス様は詩篇の箇所を引用して、ダビデがご自身について書き記していること
を私たちに証ししておられます。例えば、マタイ伝の22章を読んでもわかります。
マタイの福音書 22章43節、44節

 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。」

また、イエス様は、預言者ヨナについて書かれていることを文字通り信じられたのです。
マタイの福音書 12章40節

「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」

ヨナが三日間大魚の腹の中にいたのとまったく同じように、確実に、イエス様は三日間墓の中におられました。もし、人がどちらか一方を疑うなら、もう一つのほうも疑わしいものにならざるを得ません。

イエス様は十字架上で死の時を迎え、聖書のみことばがどれもみな神のみことばである
ことをはっきりと証しなさいました。
主は、詩篇の一つ一つのことばをお取りになり、それがご自身の死の瞬間に成就された
ことをご存知でした。例えば、
ヨハネの福音書 19章28節

 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

のどが渇いたからではありません。みことばが成就するためにだけイエス様は、「わた
しは渇く」と言われました。

よみがえりの後、イエス様はもはやしもべの形ではなく、再び神の全き栄光をお持ちになって現われなさいました。旧約聖書のみことばは、再び新約聖書の土台となって宣べ伝えられました。
旧約聖書全体を完全に洞察なさった主イエス様は、よみがえられたとき、エマオの途上
で弟子たちに出会ってくださり、ご自分の確信しておられることをお伝えになりました。
よく知られている箇所です。
ルカ伝24章27節を読むと、次のように書かれています。
ルカの福音書 24章27節

 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

とあります。「聖書全体」とは、もちろん当時は旧約聖書だけしか書かれていなかったのです。主イエス様が弟子たちに旧約聖書を説き明かされたとき、「弟子たちの心は燃えた」と記されていますが、これは何という素晴らしいことだったでしょう。

イエス様は復活のあと、弟子たちに出会われたとき、彼らのためにただ一つの福音だけ
をお伝えになられました。即ち、「すべてのことは成就されなければならない」ということ
でした。このルカ伝24章を読むと、次のように書かれています。
ルカの福音書 24章44節から47節

 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」

とあります。イエス様は弟子たちに、これらの信仰の比類なき土台、即ち、モーセ、預言者、詩篇をお残しになりました。

イエス様は、旧約聖書の完全な霊感を信じておられたのでしょうか。
イエス様が旧約聖書の一語一語、また一字一字を本当に神のことばとして受け取られていたことは、疑いの余地がありません。それは、イエス様にとって揺るがない確信でした。
ヨハネの福音書 10章35節

「もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、」

とあります。ですから、私たちは旧約聖書に対するイエス様の位置づけを、主イエス様ご自身の証しによってまとめることができます。山上の垂訓の中のことばです。
マタイの福音書 5章18節

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

これこそイエス様の確信であり、主のみことばに、私たちは全き信頼を置くことができるのです。
マタイの福音書 24章35節

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」

旧約聖書についての主イエス様の証しは何であったかを振り返ってみましょう。
三つのことを言います。
1.旧約聖書全体は主なる神の霊感によって書かれたものであると、イエス様は証しして
おられます。
ヨハネの福音書 10章35節

「もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、」

マタイの福音書 5章18節

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」


2.イエス様は、ご自分こそ旧約聖書の預言の成就であると何回も何回も言われたのです。
みことばはイエス様にとって霊の糧でした。旧約聖書はご自分の生活と死と復活につい
て預言しているだけではなく、預言どおりになるということをイエス様はご存知であり、
確信していらっしゃいました。イエス様は、預言どおりナザレに住んでおられました。
マタイの福音書 2章23節

 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。

「私たちは、約束されたメシヤに出会った。その方はナザレのイエスだ」と聞いたとき、ナタナエルはすぐに言ったのです。「ナザレか。間違っている。約束された救い主はベツレヘムで生まれる。ナザレではない」と。ナタナエルは疑問を持ったのです。しかし、イエス様に出会った瞬間、いっぺんに心の目が開かれたのです。どうして、イエス様がベツレヘムでお生まれになられただけでナザレに住むようになられたかと言いますと、旧約聖書に書かれているからです。成就されるためだけです。

主イエス様は、みことばをもってサタンと戦われたのです。前に読んでいただきました箇所、マタイ伝4章1節から10節までを読むとわかります。やはりみことばがあるから助かったとイエス様は思われたに違いありません。イエス様は、ご自分こそまことの救い主であることを証明なさるために、みことばを引用されました。例えばマタイ伝11章の2節から5節までお読みいたします。
マタイの福音書 11章2節から5節

 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。」

5節は、全部旧約聖書の預言のことばだったのです。

また、ルカ伝の4章を読んでも次のように書かれています。
ルカの福音書 4章17節から21節

 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

ご自分の苦しみについて、イエス様は、みことばが成就されるためであることを確信し
ておられたのです。
マタイの福音書 26章54節

「だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」

とあります。
十字架上でイエス様の言われたことばは、詩篇のことばであったことを私たちに示されています。詩篇の22篇です。多くの人たちはこの箇所を見ると、疑問を持つようになるのです。なかなか理解できないことばです。「イエス様はわからなかったらしい。質問したのではないか」と考える人もいるのですが、それは笑い話です。
永遠の昔、罪の問題が存在していなかったとき、イエス様はもうすでに、「わたしは、人間の代わりに犠牲になる。代わりに死ぬ」と決心してくださいました。
詩篇 22篇1節

 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

詩篇 22篇16節

 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。

イエス様は確かに十字架の上でこのことばを引用されたのです。なぜなら、約束された救い主とは、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」と叫ぶようになると預言されたからです。イエス様は全部知っておられました。もしイエス様が十字架の上でこのように叫ばれなかったなら、イエス様は本物ではなかったと言わざるを得ません。結局、一つ一つの預言は成就されなければならないのです。
詩篇 31篇5節

 私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。

「私の霊を御手にゆだねる」とイエス様も十字架の上で言われたのです。結局、みことば
が成就されるためです。

イエス様にとって、旧約聖書とは本当にすべてのすべてでした。みことばがあるから、イエス様は祈ることができ、信頼することができ、全部父なる神にゆだねることがおできになられたのです。




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更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(8) 2006. 5. 16
神のみことばは神のみことばである(7) 2006. 5. 9
主イエス様に従うこと 2006. 5. 7
神のみことばは神のみことばである(6) 2006. 4. 25
神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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