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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


神のみことばは神のみことばである(8)
   
2006.5.16(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
ペテロの手紙・第一 1章23節から25節
 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

コリント人への手紙・第一 2章12節、13節

 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。

黙示録 22章18節、19節

 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。


聖書の中の最もすばらしい章は、次の四章ではないでしょうか。創世記1章、2章。黙示録21章、22章です。それは、罪が存在していないからです。創世記3章から問題が始まります。
創世記 3章1節後半

「神は、本当に言われたのですか。」

とあります。
人間の悩みのもとは、いったい何でしょうか。答えは、今のことばに含まれています。悪魔は、主のみことばの後に疑問符をつけたのです。それだけではありません。主なる神のことばの代わりに、「自分のことば」をつけたのです。そして、人間は主のことばよりも悪魔のことばを信じたので、堕落して罪人となり、主なる神との交わりを持てなくなってしまったのです。主を恐れず主のみことばの前におののかない者は、知らないうちに悪魔の虜になってしまいます。ですから今まで何回も、みことばの大切さについて、いっしょに考えてきたのです。

今まで私たちは、まず、「人間となられた神のみことば」としてのイエス様について、考えました。
・一番目、イエス様のひとつの名称は、「神のことば」です。
・二番目、「文字となった神のみことば」です。主なる神は語られました。そして語られたみことばを聞いた人間がいました。それは旧約聖書の時代で、預言者と呼ばれた人々であり、新約聖書の中では使徒たちと呼ばれた者です。みことばを聞いた彼らは、宣べ伝えただけではなく、書き記したのです。書き記されたこのみことばとは、私たちの聖書です。
・三番目、旧約聖書の中のイエス様の証しについて。
・四番目は、旧約聖書についての使徒たちの証しです。

今日は、五番目として、新約聖書の中の使徒たちの証しについて、少し考えてみたいと思います。
旧約聖書における主のみことばが、絶対的権威を要求するのと同じように、新約聖書に
おける主のみことばも、同じように絶対的権威を要求していることを見ることができます。ですから新約聖書もまた、みことばの一つ一つが実際に神のみことばであることは、当然のことです。

まず、ペテロは、旧約聖書と新約聖書の啓示を切り離すことのできない一つのものだと強調し、旧約聖書のみことばと同じように、新約聖書のみことばも、同じ神の力の表われであり、永遠に続くものであると語っています。今、司会の兄弟のお読みになりました初めの個所、ペテロ第一の手紙1章23節がそれだったのです。
無学だったペテロが、このような文章を書くことができたとはすばらしいことです。彼が考え出したり、学んだ結果ではなく、上からの啓示によって受けたことばなのです。
ペテロの手紙・第一 1章23節

 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

あなたがたはキリスト教に入ることによって、あるいは聖書をよく研究することによって、または立派になろうと努力することによって救われたのではありません。全部神のみことばの結果である、とペテロは言っているのです。

次に、パウロもまた、自分の宣べ伝えた福音は主から源を発しているみことばである、と強調しています。前に読みましたコリント第一の手紙2章12、13節にはっきりそう書いてあります。パウロは、主から受けなかったものは宣べ伝えないように注意している、と断言しています。
ローマ書 15章18節前半

 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。

と書かれています。
そして、聖書の最後のまとめ黙示録において、もう一度、聖書全体が霊感によって書かれたものであることを明確にしています。また、一つ一つのことばが大切であるということを強調しています。
黙示録 22章18節、19節

 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

とあります。

今まで私たちは、聖書が神のみことばであるということを考察して来ました。そして、預言者たちや使徒たちによって宣べ伝えられ、語られたみことばは、主なる神が受け容れられたみことばであることをも考察してきました。すなわち、これは、語られ書かれたみことばと、受け取られたみことばとが等しい、ということを意味します。
私たちは今までに、主なる神が預言者たちと使徒たちを通してお語りになったということを確認してきました。したがって、語られたみことばと、受け取ったみことばとは等しい、ということが明らかになったわけです。

今までのことをここで分かりやすくまとめてみましょう。
・まず第一に言えることは、主なる神のお語りになったみことばは、人間すなわち預言者たちや使徒たちが受け取ったみことばと等しい。つまり同じものであるということです。

・第二番目に、預言者たちや使徒たちが書き記し、宣べ伝えたみことばは、彼らが主から
受け取ったみことばと等しい。すなわち同じものであるということです。

・したがってその結果として第三番目に言えることは、主なる神のお語りになったみこと
ばは、預言者たちや使徒たちが宣べ伝え、書き記したみことばと等しい、ということです。
この結論は否定することができません。

もう一度、以上のことをまとめてみますと、次のようになります。
@ 主なる神によって語られたみことばは、変わることなく完全な形で預言者や使徒たちによって語られ、書き記されたみことばの中に、表現されているということです。
A そしてまた、主なる神によって語られたみことばは、人間たちによって受け取られたみことばに等しい。つまり人間たちによって宣べ伝えられ、書き記されたみことばに等しいということです。

聖書は、「主のみことば」です。
1.人間となられた神のみことばとしてのイエス様
2.文字となった神のみことばとしての聖書
3.旧約聖書についての主イエス様の証し
4.旧約聖書についての預言者たちの証し
5.新約聖書についての使徒たちの証し

によって明らかになります。

もうひとつの点について考えたいと思います。
6.主なる神のみことばに対する信仰の大切さについてです。つまり、聖書に対する私たちの立場について、考えたいと思います。
聖書が自らについて証しする事がら、いわば聖書の自己紹介とは何か、と言いますと、それは「神のみことばである」ということです。もう少し詳しく説明しますと、聖霊によって与えられ、預言者たちや使徒たちによってみこころにかなって書かれたものであるということです。
聖書の要求は極めて明瞭です。すなわち聖書は、すべての部分において、また一つ一つのことばにおいて、「まことの神のみことばである」ということを主張しています。

それでは今、私たちは、この聖書の要求に対してどのような態度や、行動を取りたいと思っているのでしょうか。私たちは自由に決断すべきです。すなわち、私たちはこの聖書の要求を拒むか、あるいは、素直に受け入れるかのどちらかです。
聖書の要求を受け入れる人は、それによって聖書全体を獲得します。けれどもこの要求
を拒む人は、聖書全体を失う者です。
事実上、次の一つのことは不可能です。すなわち聖書の要求を全部、あるいは一部否定し、聖書のほかの個所を信じたいと願うこと、それはまったく不可能です。聖書の語っているすべてが正しいか、あるいはそうでないかのどちらかです。

人間はだれしも、聖書に対して根本的な決断をしければなりません。つまりだれも聖書に対していずれかの立場をとらなければならないのです。したがって、私たちは、一人の人格、すなわち、私たちにお語りくださる主ご自身に対して対面しているのです。
ヘブル人への手紙の4章、よく引用される個所ですが、そこを読むと次のように書かれています。
ヘブル人への手紙 4章12節、13節

 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

主なる神の前で隠れおおせるものは何一つなく、私たちはこの主に対して弁明をするの
です。けれども主のみことばである聖書に対する決断とは、私たちにお語りくださる人格
者、すなわち、主なる神に対する決断であり、みことばに耳を貸さないということは、み
ことばをお語りになられる主を無視することになります。


聖書は三つの要求をもって、一人一人の人間に迫ってきます。すなわち、
第一番目、聞きなさい。
第二番目、信じなさい。
第三番目、従いなさい。

第一番目、聞きなさい。
それではまず最初の要求、すなわち、「聞きなさい」という要求から考察してみることにしましょう。
聖書全体は、人間に対して、「聞きなさい」というはっきりとした要求、また命令をしています。しかしながら、この要求を人間が受け入れることができないなら、不幸な結果になるのではないでしょうか。みことばが私たちの心の耳を開いてくださるということは、まさに神のみことばの力です。主イエス様は、つんぼの人に「エパタ」すなわち、「開け」とおっしゃいました。すると聞こえるようになったのです。
同じ意味のことばは、聖書の中で何回も、何回も出てきます。まず、旧約聖書の呼びか
けとして「イスラエルよ。聞け」というみことばの箇所を何箇所か読んでみましょう。
申命記 4章1節

 今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。

6章4節

 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

9章1節前半

 聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。

また、イザヤ書からも、数箇所。読みましょう。
イザヤ書 1章2節前半

 天よ。聞け。地も耳も傾けよ。主が語られるからだ。

10節

 聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。

7章13節

 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。」

8章9節前半

 国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。

28章23節

 あなたがたは、私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを、注意して聞け。

32章9節

 のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。

34章1節

 国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。

16節

 主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。

39章5節

 すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主のことばを聞きなさい。」

40章21節

 あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。

40章28節から31節

 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

聞く者はこのような力を経験します。
44章1節

 今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。

47章8節

 だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう。』と言う者よ。

48章12節

 わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。

51章4節

 わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。

21節

 それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ。

55章3節

 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。

とあります。

マタイ伝に同じように、「聞きなさい」とあります。
マタイの福音書 17章5節

 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

旧約聖書の呼びかけとは、「聞きなさい」「わたしに耳を傾けなさい」という呼びかけで
す。イエス様の呼びかけとは、いったいどういうものなのでしょうか。
イエス様はよく言われました。例えば、
マタイの福音書 11章15節

 耳のある者は聞きなさい。

黙示録の2章、3章の中で、少なくとも七回も同じことばが出てきます。例えば、
黙示録 2章29節

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

さらに、使徒たちの呼びかけも、結局同じものでした。
使徒の働き 2章22節

 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。

聖書は、次のように証ししています。
黙示録 1章3節

 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。

「幸いである」、幸せである。同じような意味として、聖書には次のような表現も出て
きます。「見なさい」。あるいは、「見よ」。あるいは、「味わいなさい」。
実は、もっとも大切な意味を、「見よ」ということばで紹介しています。
イザヤ書 42章1節

 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。

とあります。「見よ。わたしのしもべ」と。
ゼカリヤ書にも、「見よ」ということばが出てきます。
ゼカリヤ書 9章9節

 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。

主の使いが、羊飼いたちにイエス様御降誕を告げ知らせたとき、御使いたちは言ったのです。
ルカの福音書 2章10節

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」

と。
初めてイエス様を紹介したバプテスマのヨハネは、同じように「見よ」と言ったのです。
ヨハネの福音書 1章29節後半

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

また、黙示録の3章20節に書かれています。
黙示録 3章20節

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

とあります。

同じように、「味わいなさい」という表現もよく出てきます。
ダビデは、
詩篇 34篇8節

 主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に耳を避ける者は。

とあります。
ペテロも、その第一の手紙2章3節に、「味わう」ということばを使ったのです。
ペテロの手紙・第一 2章3節

 あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。

体験的に知るようになったのです。みことばが、「食べ物」とならなければなりません。
黙示録 10章9節、10節

 それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。

エゼキエル書の中で、似ている個所があります。
エゼキエル書 3章1節から3節

 その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。

とあります。「あなたの前にあるものを食べなさい」と。
エレミヤも同じことを経験しました。よく引用されるすばらしい証し、また告白です。
エレミヤ書 15章16節前半

 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

聞くことは、心の態度であり、みことばに対して心を開くことです。すなわち聞くこと
は意志の問題です。主がお語りになることを、人間が聞きたくないと思うことが罪の始まりです。イスラエルの民は、本当にとんでもない方向に行ってしまったのです。いったいどうしてでしょうか。イスラエルの民は聞こうとしませんでした。信じようとせず、従おうとしなかったからです。

エレミヤという預言者は、このイスラエルの民について本当に悩みました。ちょっと読んでみましょう。
エレミヤ書 7章23節から28節

 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送ったが、彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあなたに聞かず、彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えまい。そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。

25章3節、4節

 アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。

7節、8節

 「それでも、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。―主の御告げ。― それで、あなたがたは手で造った物でわたしの怒りを引き起こし、身にわざわいを招いた。それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、…」

とあります。

パウロはローマ人への手紙の中で、イスラエルの民について書いたのです。
ローマ人への手紙 10章21節

 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

聞くことこそが大切です。人間は耳を持っていますが、「聞く耳」を持つ人は少ないのではないでしょうか。自分が正しいと思う人は、本当に気の毒です。「主よ。語ってください。しもべは聞いております」。この態度を取る人々は大いに祝福されます。

第二番目、信じなさい。
「聞きなさい」だけではなくて、「信じなさい」と主は要求しておられます。すなわち、「神
のみことばは、神のみことばである」という啓示が根本的な土台であることを確認しました。一つの事実を確認できてもできなくても、私たちが信じることです。
主なる神は、人間に「信仰」を要求しておられるのであり、私たちがまずすべてのことを理解して信じるということを期待していらっしゃるのではありません。主の真実を体験するためには、ただ一つの道、すなわち信仰の道だけが存在しています。
救いに至る信仰とは、絶対者である主を百パーセント信頼することであり、主の権威を百パーセント認めることです。この信仰はいかなる証拠も保証も証明も必要としません。

私たちは、「主は絶対者である」という確信の上に立って信じるのです。霊感の問題については、理解したり証明したりしてから信じるというようなものではなく、ただ単純に信じることが大切です。もしも私たちは理性で神の知識を得ようとするならば、神は「否」という態度をお取りにならざるを得ません。信じる者は認識し、理解し、見るようになるのです。
「聖書は神の霊感によって書かれたものである」と聖書は事実として伝えていますから、私たちは正直になりたいと思うなら、この事実を信じざるを得なくなります。

私たちが人間の理性に頼るのではなく、聖書は真理そのものであるからその真理を信じるという態度、すなわち意志の問題が問われることになるのです。自分の理性で判断してから安全な路線を行くことに慣れてしまっている人間にとり、主の要求は何と困難に思えることでしょう。それはまさに今までの道とは逆コース。正反対の道であるからです。

ヨハネ伝の4章50節で、イエス様は次のように言われました。
ヨハネの福音書 4章50節

 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。

とあります。

私たちは、イエス様が父なる神のみことばに対して取られたのと同じ態度を取るべきです。
ヨハネの福音書 17章17節

「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」

イエス様にとって聖書は真理そのものでした。

弟子たちについて、聖書は次のように言っています。
ヨハネの福音書 2章22節

 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

とあります。これこそ、預言者たちや使徒たちの証しを信じ、大いに用いられた人々の
勝利の秘訣でした。彼らは、旧約聖書と、イエス様のお語りになったこと、すなわち旧約
聖書と新約聖書を素直に信じました。

すべての不信仰の源は、悪魔です。悪魔が人間に語った最初のことばは、先に引用したことばです。「神は本当に言われたのですか」です。
創世記 3章1節

 神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。」

悪魔は主のみことばの後に最初の疑問符を付けました。そしてそれ以来、神のみことばの後に付けられる疑問符は、疑いもなく蛇である悪魔の足あとです。悪魔自身も神のみことばを信じています。と言うのは、悪魔でさえも神のみことばが真理であることを認めざるを得ないのです。けれども悪魔は自らを低くして、神のみことばに従おうとはしません。これこそ罪そのものです。
悪魔は、神のみことばである聖書が真理であるということを知っているからこそ、それ
を人間から奪い取ろうとするのです。そして完全に奪い取ることが出来ない場合には、み
ことばの下にトンネルを掘って、土台を崩そうとするのです。
悪魔は、私たちから聖書を奪い取ろうとしますが、成功しないときには、聖書を穴だらけにして、役に立たないようにしてしまおうとたくらみます。この悪魔の企てが成功しますと、聖書は私にとってもはや岩のような土台ではなく、揺れ動く大地となり、私たちを罠にかけてしまいます。悪魔は初めから偽りものであり、「神のみことばは神のみことばではない。神のみことばは一部分だけ神のみことばである」ということを人間に信じ込ませようとし、それが成功したとき、悪魔の目的が達したことになります。それによって悪魔は私たちの日常生活を無力にし、私たちの奉仕を不毛にしたということになります。

聖書全体は完全な霊感によるものだという事実から出発しない福音宣教や、聖書研究は、初めから無効であることになります。その結果、むなしい努力がなされ、いつも私たちを落胆に終わらせます。それは空を打つようなものです。ですから悪魔は、あらゆる信者を、聖書が完全な霊感によるものとする信仰から引き離すことに一生懸命頑張るのです。

主のみことばはダイナマイトのようなものです。なぜなら、みことばによって巌は爆破され、鎖は解け、悪魔の虜から解放されるようになるからです。けれど、私たちは、神のみことばに徹頭徹尾信頼しなければ、悪魔にとっての危険人物とはなりません。みことばを信じないことは、悪魔の嘘を信じることになります。主なる神の切なる願いは、人間がみことばを百パーセント信じることです。

信仰の父と呼ばれているアブラハムは、「主を信じた」と聖書は記しています。
創世記 15章6節

 アブラハムは主を信じた。

と書いてあります。
一人の人間が、アブラハムのような態度を取るなら、天において大きな歓声があがるのです。主のみことばを信じることは、現代の私たちと同じように、アブラハムにとっても簡単なことではありませんでした。昔の信者たちは、信仰によって、ただみことばにだけ頼ったのです。

イスラエルの民の悲劇は、神のみことばが預言者たちの口を通して与えられていながら、
信じようとしなかったこと、また信じたいと思わなかったことでした。聖書のどこを読んでも、イスラエルの民が神のみことばを信じることができなかったとは書き記されておりません。「信じようとしなかった」と記されていることです。




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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(8) 2006. 5. 16
神のみことばは神のみことばである(7) 2006. 5. 9
主イエス様に従うこと 2006. 5. 7
神のみことばは神のみことばである(6) 2006. 4. 25
神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集