キリスト集会のご案内
TOP日曜礼拝家庭集会よろこびの集い出版物  


メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


神のみことばは神のみことばである(7)
   
2006.5.9(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
ヨハネの福音書 12章48節
 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

ペテロの手紙・第一 1章23節

 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。


今日また、今までのテーマ、すなわち、「聖書の大切さ」について考えたいと思います。

今朝、ある姉妹の話を聞いたのですが、一度イエス様を告白して洗礼を受けた娘が自分勝手に離婚し、子どものいる人と結婚したいと言い出したのです。答えとして、けれど、イエス様は勝利者でしょう。人間的な思いではやはり大変なことです。イエス様は生きておられます。祈りを聞いてくださるお方です。
みことばがなければ、本当に人間はかわいそう過ぎるのではないでしょうか。ですから、
みことばを探すこと、聞く耳を持つことこそが最も大切ではないでしょうか。
エレミヤは、
エレミヤ書 15章16節前半

 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

わかったからではありません。理解できたからでもありません。いい気持ちになったのでもありません。私は、みことばですから受け入れます。その結果として、「あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなった」のです。

とんでもない過ちを犯したダビデ王は、ほかの人々よりもみことばを大切にしたのでは
ないでしょうか。一番長い詩篇は彼の告白です。「あなたの教え」、「あなたの戒め」、「あなたのみことば」ということばが、何回も何回も出てきます。結局、ダビデにとってみことばとはすべてでした。
詩篇 119篇105節

 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

彼にとって経験した事実です。
162節

 私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

みことばに頼ると、だれもがまた元気になります。
今、読んでいただきました個所も本当に厳しいことばです。
ヨハネの福音書 12章48節前半

 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。

「さばくもの」とは、わたしの話したことばです。
高度な勉強をしていないペテロが、
ペテロの手紙・第一 1章23節

 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

と。イエス様の弟子たち使徒たちは、みことばこそすべてのすべてであると言い続けたのです。

今まで私が何回も強調したことは、旧約聖書と新約聖書の中で、次のような要求がされています。主によって語られたみことばは書かれたみことばに等しい、ということです。
私たちは、このような聖書の要求を、「聖書の完全な霊感」と呼びます。部分的ではなく、聖書の全体こそ主なる神のみことばです。主によって語られたみことばは、少しも変わることなく、預言者によって書かれたみことばと等しいものであるということです。

聖書の中で何回も、「主は語った」、「主は仰せられた」と記されています。そればかりでなく、またイエス様も語られました。何回も「主は言われた。云々」とあります。そればかりか、御霊が語られたことについても沢山書かれています。

私たちは前回、イエス様の旧約聖書に対する態度についていっしょに考えてきました。
イエス様は、旧約聖書を百パーセント信じておられました。そして旧約聖書の一つ一つの
みことばは、イエス様にとって手を加えてはならない神聖な父なる神のみことばでした。

イエス様を信じることとは、旧約聖書に対して私たちも同じように信頼を置くことを意味します。イエス様は、一つ一つのみことばが聖書に書いてあることをすべて保証してくださり、旧約聖書全体が真理そのものであることを、はっきりとお語りになられたのです。ですから、私たちは聖書のことばがどれもみな神のみことばであることを、ほかの方法で証明する必要はありません。
イエス様は「あなたのみことばは真理である」と言われましたので、私たちは安心して信じることができるのです。真理そのものであるイエス様が、聖書の霊感を百パーセント信じておられましたから、私たちもまた聖書の霊感を信じることができるのです。

世の光であるイエス様は、いろいろな偽装の神々をすべて追い払わなければなりません。
主のみことばは、あらゆる人間のことばや理解力に勝るものです。聖書の霊感に対する決
定的に大切なものは、イエス様のお取りになられた態度だったのではないでしょうか。
 聖書はイエス様にとって力の源でした。イエス様が旧約のみことばを引用なさるとき、その確信は岩のように堅固なものでした。「神のみことばは真理そのものである」とイエス様は信じて疑われなかったのです。

マタイ伝5章の中の『山上の垂訓』ですが、イエス様は言われました。
マタイの福音書 5章18節

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

これこそイエス様の確信であり、主のみことばに私たちが全き信頼を置く根拠なのです。
旧約聖書全体は主なる神の霊感によって書かれたものである、とイエス様は証しなさったのです。またイエス様は、「ご自分」こそ旧約聖書の預言の成就であることも、はっきり証しなさったのです。イエス様は旧約聖書に預言されているお方だったのです。「イエス様ご自身」は、初めから父なる神と共に存在されていることばそのものであられたのです。
よく知られているヨハネ伝1章1節です。
ヨハネの福音書 1章1節

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

この「ことば」とは、もちろんイエス様ご自身です。イエス様は、旧約聖書こそ主なる神のことばそのものであると言われました。

今日は使徒たちについて考えたいと思います。
旧約聖書についての使徒たちの考えとは、いったいどういうものだったのでしょうか。
使徒たちは自分たちの主に忠実に従いました。イエス様が高められたお方として使徒たちに遣わしてくださった聖霊は、使徒たちにすべてのことを教え、またすべてのことを思い起こさせました。
聖霊の導きのもとに、使徒たちは、聖書を学び、聖霊の権威において聖書を用いて引用しました。私たちは、聖霊が主イエス様とまったく同じように教えてくださることを体験することができます。すなわち、イエス様の宣べ伝えられた福音の真理は、同時にまた、すべての使徒たちが宣べ伝えた福音の真理でもありました。一言で言いますと、イエス様とまったく同じように、使徒たちもまた旧約聖書の霊感を信じ、また確信したのです。

次に、五人の証しを見てみましょう。
まずマタイ。二番目、ヨハネ。三番目、ペテロ。四番目はパウロ。そして五番目、ヘブ
ル書の著者。(誰であるかちょっと不明なのですが、)たぶん五人でしょう。

1.まずマタイは、ご存知のように、旧約聖書から引用する名人そのものでした。かつて取税人だったマタイは、何とよく旧約聖書に精通した、そしてまた何と適確なみことば
を用いていることでしょう。
マタイは再三再四、旧約聖書と新約聖書の密接な関係を示し、そのみことばの一つ一つ
がいかにして主イエス様において成就されたかを、私たちに証明しています。マタイの福音書の中には、「書かれたことが成就されるために」、「書かれたことが成就されるために」と繰り返し書かれています。その一章を読んで見てみましょう。
マタイの福音書 1章22、23節

 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

生まれたときから死に至るまで、そして復活に至るまで、イエス様のことを、マタイは
証明しています。みことばが成就するために、これらのことは起こらなければならなかっ
たのです。
マタイの福音書 12章17、18節

 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。

マタイの福音書の中では、旧約聖書の二十七巻以上のものから、みことばを引用しています。しかしマタイだけではなく、ヨハネもまたマタイとまったく同じ態度を取ったことがわかります。

2.ヨハネもまた、旧約聖書全体が神の権威によって書かれたものであり、霊感によるものであることをはっきりと証ししています。イエス様と同じように、ヨハネも聖書をよく調べなさいと言いました。ヨハネ伝5章39節を読むと、次のように書かれています。
ヨハネの福音書 5章39節

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」

そしてモーセによって書かれたものは、神の権威によって書かれたものであると言って
います。
ヨハネの福音書 5章46節、47節

「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」

ヨハネは証明するときに、議論などは一切しないで、「聖書にそう書かれています」という一言で片づけています。そしてヨハネは、主イエス様が聖書すなわち旧約聖書をお教
えになったと私たちに語ってくれます。特にイエス様の受難の歴史においては、旧約聖書
が成就したことをヨハネは私たちにはっきりと示しました。12章から読みます。
ヨハネの福音書 12章14節

 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

38節から41節

 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

また、同じくヨハネ伝の19章24節をお読みいたします。
ヨハネの福音書 19章24節

 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。

28節

 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

喉が渇いたためというよりも、聖書が成就するために、イエス様はこのように言われました。
36節、37節

 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。

とあります。
そしてまた、ヨハネは証しを通して、旧約聖書とイエス様のお語りになったこととが全く対等、権威ある信仰の土台であると言っています。
ヨハネの福音書 2章22節

 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

とあります。
福音書を書いた人たちがみな、旧約聖書に関するこのような証しにおいて一致します。
そして旧約聖書の一つ一つのみことばは、彼らにとって重みのあるものであり、純金とみ
なされ、用いられます。使徒行伝に書かれた使徒たちの福音は、何と力強いものだったの
でしょうか。このことは、全世界に短期間のうちにイエス様の福音として広まりました。
彼らの語った福音の力はいかなるものだったのでしょうか。五旬節におけるペテロの説教は、三千人のたましいを主イエス様に導いたのですが、このことを学んで分かることは、語られたみことばの半分以上は旧約聖書からの引用であったということです。

3.使徒行伝から読んでみましょう。ペテロの奉仕の土台は、間違いなく旧約聖書でした。
使徒の働き 3章21節

 このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

ペテロの書いた手紙を見ると、旧約聖書におけるみことばの絶対的な確実さが、彼の語った一つ一つの土台になっていることがわかります。
ペテロの手紙・第一 1章12節

 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。

16節

 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

2章6節

 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

3章10節から12節

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」

ペテロの手紙・第二 1章21節

 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

使徒たちのような働きの実を自分も持ちたいと願う者は、使徒たちの伝えた福音を宣べ伝えなければなりません。初代教会全体の証しもまた同様です。
もう一度使徒行伝に戻りまして、
使徒の働き 24章14節

 しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たち
が書いていることとを全部信じています。


4.今度はパウロの引用した個所を読んでみたいと思います。パウロは旧約聖書の霊感を信じたのでしょうか。パウロは、旧約聖書に精通した学者であり、旧約聖書の最も深い
事情を洞察した人でもありました。私たちは、透徹した理性と徹底的な論理を持った人で
あるパウロに対して、彼が旧約聖書からみことばを深く考えずに福音を宣べ伝えたという
ようなことを言えるでしょうか。決してそうではありません。パウロにとっては旧約聖書
のどのみことばも、本当に神のことばでした。旧約聖書はパウロの福音の土台そのもので
した。
使徒の働き 24章14節

 しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。

28章23節

 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。

とあります。
パウロの福音の土台とは旧約聖書でした。もしも旧約聖書の霊感を否定するなら、パウロの書いたローマ書は全く崩れてしまうのです。なぜならば、ローマ書の半分は旧約聖書からの引用だからです。
ローマ人への手紙 1章2節、3節前半

 ― この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。

パウロの時代には、新約聖書はまだ存在していなかったのです。
3章2節

 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。

3章9節

 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

3章21節

 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

4章3節前半

 聖書は何と言っていますか。

短い、大切な文章です。私たちはどういう問題にぶつかっても、まず自分で考えないで、
「聖書は何と言っていますか」と考えるべきではないでしょうか。
4章3節後半

「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。

4章17節

 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

9章13節

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。

17節

 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。

10章11節

 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

次の11章。2節から読みましょう。
11章2節から26節

 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたがは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。 選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。

云々とあります。また、
ローマ人への手紙 14章11節

 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

15章3節

 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。

9節前半

 また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。

21節

 それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、 聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」

また、パウロはほかの手紙においても同じように、旧約聖書のみことばをよく用いて書
いたのです。例えば、
コリント人への手紙・第一 1章18、19節

 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、 賢い者の賢さをむなしくする。」

2章9節

 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

 「聖書に」とありますが、(もちろんここでいつも旧約聖書と書くべきですけれど、)「まさしく旧約聖書に書いてあるとおりです」と。
3章19節前半

 なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。

大切なことは、何が書いてあるかということです。すなわちこう書いてあります。
19節後半、20節

「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。」また、次のようにも書いてあります。「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」

14章21節

 律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる。」

15章45節

 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

「聖書に」とは、旧約聖書に、です。
54節

 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

コリント第二の手紙の中でも、パウロはよく「聖書は何と言っていますか」と問いかけています。
コリント人への手紙・第二 6章2節

 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

16節から18節

 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

すべて旧約聖書から引用された個所です。
9章9節

「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

テモテ第一の手紙の中でもパウロは、「聖書はこう言っている。云々」と書いたのです。例えば、
テモテへの手紙・第一 5章18節

 聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。

また、ガラテヤにいる兄弟姉妹に、パウロは次のように書いたのです。
ガラテヤ人への手紙 3章8節

 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。

3章16節

 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

4章22節

 そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。

27節

 すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、 夫のある女の産む子どもよりも多い。」

云々とあります。使徒たちはみな口を揃えて、大切なのは旧約聖書のみことばであると
語ったのです。

5.最後に、ヘブル書の著者の書いたものを少し読んで終わりたいと思います。
ヘブル書は、使徒たちが旧約聖書の完全な神の霊感を認めたことを証明するものです。
旧約聖書の一つ一つのみことばは、主なる神から与えられたものであり、永遠の意義を持
ち、ヘブル書におけるみことばの土台となっています。1章から読みましょう。
ヘブル人への手紙 1章5節から8節

 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。 きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、 彼はわたしの子となる。」さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。

13節

 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」

2章8節、9節

 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

「私たちは…イエスを見ています」。
3章7節、8節

 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」

4章2節から11節

 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから。神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

6章13節、14節

 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」

7章1節

 このメルキゼテクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。

17節

 この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼテクの位に等しい祭司である。」

云々とあります。また、
8章8節から12節

 しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。 小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

10章5節

 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。」

12章26節

 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」

実際、主なる神は、預言者たちを通してお語りになりました。私たちはしっかりとした
預言のみことばを持っています。
ヘブル書は、旧約聖書の一つ一つのみことばに対して、一つ一つ肯定している書として
際立っています。聖書、すなわち、旧約聖書の完全な霊感を否定したうえで、ヘブル書を信頼し神のみことばとして確信することはできません。それは論理的にも道徳的にも不可能なことです。万一そんなことが可能だとするなら、私たちは長い間偽りとしてきたものを真理と呼ぶような、矛盾したことになるでしょう。
ヘブル書の著者は、旧約聖書に基づいて、多くの事実を知っているのであり、その一つ
一つのみことばは巌のように確かな土台となっているのです。
ヘブル書11章は旧約聖書の歴史的な出来事が主の霊感によるものであることを私たちに告げています。

旧約聖書と新約聖書の統一的な証しは、「主がお語りになった」ということです。




サイトマップ
更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(8) 2006. 5. 16
神のみことばは神のみことばである(7) 2006. 5. 9
主イエス様に従うこと 2006. 5. 7
神のみことばは神のみことばである(6) 2006. 4. 25
神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集