キリスト集会のご案内
TOP日曜礼拝家庭集会よろこびの集い出版物  


メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


主イエス様に従うこと
   
2006.5.7(日)
ベック兄メッセージ(メモ)

西軽井沢福音センターにて
 
マタイの福音書 11章28節から30節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

マタイの福音書 16章24節から26節

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさいいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」


いわゆる宗教の中心はいつも人間です。聖書の中心は、もちろん主イエス様です。行動なさるお方とは、イエス様です。そしてイエス様の呼びかけは、未信者に対する呼びかけだけではなく、信じる者に対する呼びかけでもあります。すなわち、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。
数えきれない多くの人々が、この呼びかけによって、またこの呼びかけに従うことによって、解放され幸せになりました。人間のため、すなわち助けを求めている人のために、絶望している人のためにイエス様が生きておられます。悔い改めと信仰を通して、イエス様の実在と救いが明らかになります。けれども、悔い改めと信仰は、決して人間から生まれるものではありません。まさに上から与えられる賜物です。ですから、信仰とは、この贈り物を喜んで受け取ることであると言えます。

人間にとってもっとも大切なことは、提供されている救いを自分のものにすることです。そのために当然必要なことは、「自分も救われなければならない」という必要性を悟ることです。そして、人間的な努力はまったく空しいということも知ることです。つまり、自分も他人も、ある宗教ある教えも自分自身を救うことはできない、ということを認めることです。すべて人間的な努力は、見込みなく、望みなきものです。聖書が語っている、提供されている救いとは、「罪の問題の解決」ということなのです。

今朝、礼拝のときある兄弟が読まれましたが、ヘブル書10章の中で、主は、「わたしはあなたの罪を決して思い出さない」と。主は赦すと忘れてくださいます。意味は、その人が一度も罪を犯さなかったかのような状態になるということです。理解できにくく、考えられません。けれども、主イエス様の義とはそういうものです。

人間はただ、「イエス様、私も過ちを犯す者としてみもとにまいります。あなたが私の罪の問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを、心から感謝します」という態度を取ると、人間には確かに感じられないかもしれませんが、御霊様が人間の中に住むようになります。
「いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」。いのちの水とは、人間の努力結果として受け取るものではありません。ただ(無料)です。価なしに救われるということは、信仰をもつ人々にとって想像できない、考えられないことですが、本当のことなのです。条件は、「欲しいという気持ちをもつ」ことです。欲すれば受けるに違いありません。主は、強制はなさいませんが、欲しくなければ将来は真っ暗闇です。

イエス様は、精神的に疲れているから、いろいろなことで悩んでいるから、「おいで」と言われただけではありません。「わたしの弟子となりなさい」「わたしについて来なさい」と。信じる者にとって、これこそもっとも大切なことではないでしょうか。すなわち、主イエス様を信じることだけではなく、「主に従うこと」です。

三つの点に分けて考えましょう。
1.なぜ、イエス様に従うべきなのでしょうか。
2.イエス様に従うための条件とは、いかなるものなのでしょうか。
3.イエス様に従うことと、イエス様の十字架との関係は、いかなるものなのでしょうか。

1.なぜ、イエス様に従うべきなのでしょうか。
イエス様に従うことをせず、またイエス様のみこころを行なわない人々がおり、イエス様の神性について疑う人がおります。またある人々は、聖書に記されていることを真理と認めさえすればそれで十分ではないかと考えます。
聖書に記されていることは、例えば、イエス様は約束された救い主であり、神の御子であられ、神の小羊として完全な救いを成就され、復活なさり、すべてをご支配して、生きておられることを明らかに記しています。また、このような真理を宣べ伝えればそれだけでいいのではないか、それで十分ではないか、と考える人がおります。
しかし、本当にイエス様に従うこととは違うことなのです。このことを正しく理解していないなら、それは、その人の信仰生活にとって大変な障害となるだけでなく、そのような人によって影響を受ける人々のわざわいとなります。イエス様に従うことをせずに、主の恵みと愛を信じる者があるとすれば、その人の道は誤ったものにならざるを得ません。
ただイエス様の恵みだけを要求しイエス様に従わない者は、イエス様を閉め出し、遠回りをしようとすることにほかなりません。

恵みとは、すばらしい救いのみならず、主イエス様が完全に支配なさることでもなければならないのです。ことばを変えて言うならば、恵みとは私たちが固執しているものから解放してくれるものです。したがって、イエス様に従うということは、決して頭で考えたものではなく、実際の行ないにほかなりません。この点について、聖書はまことに厳しいことを私たちに求めております。すなわち、「もしも目が罪を犯すならその目をえぐり出し、手が罪を犯すならその手を切り捨てよ」とイエス様は言われました。
恵みと主に従うことは、密接不可分なものであり、どちらか一つだけを切り離して考えるということはできません。どちらか一つだけが切り離されるならば、それはもはや意味の無いものであり、力の無いものになってしまいます。

主に従う備え無くして恵みにあずかるということはあり得ません。確かに、提供された恵みを受け入れた者だけが、主に従うことができるのです。なぜイエス様はご自分に従うことを要求しておられるのでしょうか。なぜなら、私たちを富んだ者とならせようとしておられるからです。イエス様が与えようとしておられるもの、すなわち恵みは、決して主に従うこととは別個のものではないのです。私たちが本当にイエス様に従う備えのあるときにのみ、主イエス様は私たちに恵みを与えてくださり、豊かに富ませることがおできになるのです。

イエス様に従うことは、取りも直さず、イエス様のみこころに私たちのすべての思いを
明け渡すことです。このことだけは、いかなる人といえどもそうせざるを得ないことなのです。
イエス様に従うことは、まさに日々主に対して従順であることを意味します。主に従うようにという招きそのものが、大いなる恵みではないでしょうか。本当にイエス様に従う者だけが、心から主を賛美することができ、主の御名をほめたたえることができるのです。

悪魔は、私たち人間が主の恵みを信じようとするときには、比較的に反対しないかもしれませんが、イエス様にだけ従おうとするときには、猛烈な反対をするのです。私たちは日々豊かな主の恵みにあずかろうとするなら、主に従う必要性を知らなければなりません。その結果、私たちの生活は空の桶にすぎないか、それとも満ち溢れる泉かのどちらかです。


2.次に、イエス様に従うことの招きとその必要条件についてみことばから読んでみたいと思います。マタイ伝から読みましょう。
マタイの福音書 4章18節から22節

 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

「わたしについて来なさい」。迷える羊にとってこれこそ安全を意味します。ただ「わたしについて来なさい」と。

マルコ伝の中で、同じ意味についての個所があります。
マルコの福音書 1章16節から20節

 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

ルカ伝からもう一箇所読みましょう。
ルカの福音書 5章1節から11節

 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

福音書を読むと明らかなことは、イエス様ご自身がご自分に従うべき人々を召されたと
いうことです。イエス様は、人々が召される前にその人のことをじっと見ておられること
も聖書からわかります。「主はご覧になった」というみことばが、繰り返し繰り返し出てくることに気付くことです。その際に大切なことは、私たちが自分の力でついて行くか行かないかということではなく、私たちの心の状態がどうであるかということです。イエス様に従うということは、幼子のように従順に聞き従うことです。
また、イエス様に従うということは、たとえどれほど大きな犠牲を払おうともイエス様
と共に行くという心構えです。また、イエス様に従うということは、イエス様の要求に対
していつでもそれに応じることです。イエス様の働きによって信仰が生まれ、その信仰が本当の従順を生み、その従順の表われがイエス様に従うことです。人間的に見ればイエス様に従うということは、馬鹿正直に思われるものです。

いったい、信仰とは何なのでしょうか。信仰とは自分が価なく、罪深い者であることを認めることです。イエス様を信じる者は、決して人間的な尺度でものごとを測ることをしません。そのような信仰こそイエス様に従うこととなるのです。幼子のような従順な行ないというものは、人々を傾聴させ、沈黙させるものです。
レビ(後のマタイ)はイエス様に従うべく召され、喜んですぐに主のために食事を用意したと聖書は語っています。

・イエス様に従うことは、決して個人的な事がらではありません。まことにイエス様がすべてを支配なさることを意味します。
・イエス様に従うことは、決して隠れていることではありません。
・イエス様に従うことは、与えられた恵みを感謝することであり、人々の前でイエス様を証しする勇気の表われでもあります。

イエス様は、私たちを召されるときに、私たちがすぐに従うことを望んでおられます。
イエス様は、本当にお用いになることができる者を召し出され、主に従うことを心から求
めておられるのです。そして、そのような者だけが完全に主の支配下に置かれるのです。
そしてまたイエス様にすべてを明け渡す者だけが主に召し出され、また用いられるのです。

富んだ金持ちの青年は、すべてを正直にイエス様の前に言い表わし、イエス様にすべてを明け渡すことをしなかったため、悲しげにイエス様から離れて行き、主に従うことができなかったのです。
イエス様に従うということは、主の前に見栄を張ることをせず、誇らず、傲慢にならず、自信に満ちた振る舞いをせず、立派な振りをせず、心から飢え渇き、心の貧しい者であり、主イエス様のみことばを聞き、主に従うことを切に求めることにほかなりません。

イエス様を愛するがゆえに、主に従順であることこそ、主に従うことです。イエス様を
本当に愛し…
(テープ切れ、B面に)…

3.イエス様に従うことと、イエス様の十字架の関係とは、いったいどのようなものなのでしょうか。
前に開いた、マタイ伝16章からまた二、三節読みます。
マタイの福音書 16章21節から26節

 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。 あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」

もしもイエス様が十字架の苦しみを避けようとなさったならば、主は悪魔に従うことに
なってしまわれたことでしょう。主の目からご覧になるならば、十字架の苦しみはどうしても受けなければならないものでした。十字架の苦しみを逃れようとすることは、確かに人間的であるかもしれませんが、闇の世界から出て来るものです。十字架の死無くして、主に従うことはあり得ません。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。

ヨハネ伝の6章を読むと、次のように書き記されています。
ヨハネの福音書 6章67節から69節まで

 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」

イエス様は、私たちが告白したり、心の中で認めること以上のものを望んでおられるのです。もしも、私たちが表面上、主イエス様のみそばにいて、主に従うような振る舞いを見せたとしても、それだけでは決して本当の意味で主に従うことはできません。自分自身をより多く愛する者は決して主に従うことはできません。私たちは、ペテロがイエス様を拒み、「私はそんな人は知らない」とか「イエス様とは何の関わりもない」と偽ったことを知っています。私たちも自分自身を捨てなければ、ペテロと同じように、イエス様を拒むことになってしまうのです。

自分自身を捨てるとは次のようなことでしょう。私はこの人間、すなわち、私自身とは関係が無くなっている。私自身は全く大切ではなく、あなたがたがこの私をどうしようと、それは私にとってどうでもよいことです。「ただ、主イエス様。私の生ける主であられ、父なる神のひとり子であられるイエス様の御名だけを賛美し、大切にします」。
自分自身を捨てるとは、自分の願いや自分の意思、いのちを一番大切なものとせず、それらを捨てて、ただイエス様だけを第一にすることです。

このような実例は、聖書の中で沢山あります。例えば、
・モーセはそのままの境遇に留まるならば、人間的な能力や努力なしに少なくとも当時の王様の跡継ぎになれたはずですが、彼はそれを捨てました。彼は自分自身を捨てたのです。それによって、モーセは何百万という人を救う器とされました。

・ヨセフも、ポティファルの妻の言うとおりになれば、間違いなく大金持ちになり、この世的には最高の名誉を得ることができたでしょうが、ヨセフはその富を得たとしても、己がいのちを損じたなら、何の益にもならないことをよく知っていました。彼は自分自身を捨てたのです。そしてそのことによって、多くの人々が救われ、いのちを得ることができたのです。

また主に従うことは、主のために喜んで死ぬ備えができていることをも意味しています。
・ペテロは、イエス様が捕えられようとしたとき、剣を抜いて、そのひとりに斬りつけま
した。もちろん彼は自分が捕えられることを覚悟したのですが、自分の誇り、自分の傲慢などの人間的な思いをことごとく捨て去ることはできなかったのです。イエス様が十字架につけられたとき、つまり全人類の罪を背負って尊い血潮を流してくださったとき、そこには誇りや傲慢の思いはなく、本当に砕かれた状態でした。

イエス様に従うということは、おのれに死ぬことであり、イエス様のために喜んで死に
応じることであり、すべてを主にささげることです。それが具体的にどういうことかは、
いわゆる『山上の垂訓』が明らかにしています。山上の垂訓とは、マタイ伝5章、6章、7章に書かれていますが、
マタイ伝5章は、「主に従い、十字架を負う者は、隣人に対して新しい関係を持つ」と語っています。そしてその人の生活は、自分自身のためであるとか、人に気に入られたいというようなものには向けられていないのです。ただ一つの願い、主イエス様に仕え、主イエス様のご栄光を拝することにほかならないのです。そして、隣人も十字架の一断片となり、隣人を本当に愛することができるようになるのです。これがマタイ伝5章の内容です。

マタイ伝6章は、イエス様に従うことと聖めとが結び付いている、と記しております。
聖めとは、自分自身のエゴを捨てることです。また聖めとは、ただイエス様にのみ栄光と
誉れとを帰すことです。またイエス様に従う者はだれでも祈りの人となるのです。そして
その人の心構えは、自分自身が大切なのではなく、自分の思いではなく、「イエス様のみこころが行なわれますように」ということなのです。
また、祈りだけではなく、断食のことについても記されています。断食とは、自分自身
に対してはあわれみ深くなく、他人に対してあわれみ深いことです。

そして本当にイエス様に仕えイエス様に従う者は、主が何を望んでおられるか、また、イエス様がいかに用い導かれるかに対して常に細心の注意を払うはずです。
イエス様に従う者は、決して明日のことを思い煩いません。なぜなら、イエス様は常に私たちを見守り、昨日も今日も永遠に亘って変わらないお方です。私たちのことを心に留めていてくださるからです。イエス様を知らない者は思い煩いますが、イエス様を知っていながらそれにも関わらず思い煩う者は、主に栄光を帰さない者ではないでしょうか。

またマタイ伝7章は、イエス様に従うことが主の再臨と密接に結び付いているということを記しています。本当にイエス様に従う者にとっては、この世のものはすべて見せかけの価値しか持っておらず、ただイエス様の再臨を待ち望むことが唯一の喜びです。「イエス様は必ず来てくださる」。この確信こそ、主に従う者を支配しているものです。イエス様のためのあらゆるご奉仕は、自分自身に死ぬことを意味します。他人のために心から仕えることは、自分自身を捨てて献身することです。

私たちが喜んでイエス様に従おうが、勝手に自分の道を行こうが、イエス様は今日も、
「従って来なさい」と私たちを招いておられます。イエス様に従うか否か、この選択にすべてのことがかかっていると言っても言い過ぎではありません。イエス様は私たちを主の口から吐き出されるか、さもなければイエス様とともに勝利の栄光の座に着かせてくださるか、どちらかをなさるのです。
イエス様に従うなら、いうまでもなくイエス様といっしょになります。そうすると孤独から解放されます。どんなに愚かな羊であっても、従うことができます。迷える羊に向かって、主はおっしゃらないのです。例えば、「もう少し頑張ってライオンになりなさい。虎になりなさい」と。これはもちろん羊にとって意味の無いことですし、全く不可能であり、あり得ないことです。大切なのは迷える羊である私たち人間ではなく、羊飼いなるイエス様なのです。従うと、安全に守られます。これこそまことの幸せです。

Y兄弟の描かれた可愛い、可愛い小羊の絵の下に次のみことばが書き記されています。
黙示録 3章17節

 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

ある姉妹から私はこのハガキをもらいましたが、姉妹はこのみことばの下に、次のよう
に書いたのです。「このみことばは私にぴったりです。主の忍耐に感謝です」。

ダビデは三千年前に喜んで言うことができたのです。
詩篇 23篇1節

 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

5節後半

 私の杯は、あふれています。



サイトマップ
更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(8) 2006. 5. 16
神のみことばは神のみことばである(7) 2006. 5. 9
主イエス様に従うこと 2006. 5. 7
神のみことばは神のみことばである(6) 2006. 4. 25
神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集